大学受験|倫理

高速マスターシリーズ


高速マスターシリーズ センター試験倫理 48テーマ&演習


「倫理」をこの手につかみ取る

 こんにちは、相澤です。僕の「倫理」という科目に対するイメージは次の通りです。

(1)倫理はとても面白い科目だ。生きていく上で、考えるべきことがいっぱい詰まっている。社会への入り口に立つ皆さんにも、ぜひ勉強してほしい。
(2)センター倫理の問題は、よく練られていてとても面白い。まじめに取り組む価値は十分にある。
(3)僕は普段、現代文や日本史の授業を通じて、家族や、社会や、歴史や、環境や、文化や、そういうものがたくさん積み重なって、自分が今ここに生きていることの「重み」を伝えたい、自分でも掘り下げたいと思っていた。倫理はそれをストレートにできる科目ではないか。

 僕は、「倫理」をこの手でつかみ取ろうと、本当に納得できるまで(それは単に内容を理解したということではなく)勉強しました。そしてそれを、皆さんの心に届け! と精一杯言葉に魂を込めて書きました。もちろん、センター試験で高得点を取ることが第一の目標です。そのための工夫もたくさんしました。しかし、その枠組みを超えて、皆さんの何か「糧」になるものがあったら、こんなにうれしいことはありません。


【特別寄稿】 「今度こそ〈バブル〉を乗り越えるために」

 〈倫理〉とは、今をひたむきに生きること、そのことに他なりません。
 そして、その〈今〉とは、私たちにとって〈バブル〉後の社会のことです。
 〈失われた10年〉とともに20代を過ごしてきた僕は、
 もう一度〈バブル〉を繰り返そうとしている社会に歯がゆさを感じていました。
 その思いが、昨年(2005)の夏の段階で【終章】を書かせました。
 ホリエモン君の末路は、僕にとってそう驚くものではありません。
 むしろ、今度こそ〈バブル〉を乗り越える良い機会が来たと感じています。
 しかし、そのためには今回の事件をホリエモン君個人の問題に限定することなく、
 〈バブル〉後を私たちがどう生きてきたのか、その反省材料としなくてはなりません。
 この本(『センター試験倫理48テーマ&演習』)は、もちろん学習参考書です。
 センター試験倫理で高得点を上げられるよう、精一杯の努力をしました。
 しかし、それで満足するつもりはありません。
 受験生はもちろん、指導に当たっている先生方、
 薄明かりの先に必死で未来を見い出そうとしている方、
 多くの人に読んでいただけたら幸いです。

 (2006年2月 著者)


【終章】「バブル」後を生きる倫理 より(一部、略)

 ・・・・・・しかし、僕には引っかかるところがあります。私たちが今生きている「現代」とは、「バブル」後に他ならないのではないか。それなのに、センター倫理や学校の教科書は、「バブル」崩壊とともに無効が宣言されたはずの〈旧い価値観〉に縛られ、青年期に生きる皆さんをそこに押しとどめようとしているのではないか、と。

 バブル景気(1986〜91)とは、巨額の資金が土地や株に流れた結果、地価や株価が実態をかけ離れて異常高騰した現象のことです。その経済(学)的な要因としては、円高の進行・金融の大幅な緩和などが指摘できます。しかし、問題は「欲しくもないのに土地や株を買った」という点にあった、と僕は考えています。お金は余っているが(本当に余っていました)、別に欲しいものもない。でも、都心の一等地なら値が上がると聞いて、「欲しくもないのに」買う――それは異常な価格がつくはずです。欲しくもないものの価値を、人は自分では判断できませんから。

 こう考えれば、バブルが崩壊した原因は、「欲しくないことに気づいた」ということになります。土地も株も心から欲しかったわけではない。だから、下がるのもあっという間でした。

 そして、その後も「欲しいもの」が見つかりません。それが1990年代の「失われた10年間」です。欲しいものはない、お金もない。じゃあ「安い」ものを買おう。デフレ(物価の下落)が続きます。牛丼もハンバーガーもフリースも安くなる。でも、「欲しいもの」ではありません。そこに「あなただけの色」はありませんでした。

 誰にでも自明の「欲しいもの」が存在していたのが戦後の日本社会だったとすれば、バブルはその嘘っぽさを劇的な形で暴いてしまいました。〈旧い価値観〉はこうして無効が宣言されます。そして、自分の「欲しいもの」を探すことが世紀末を生きる日本人の大きな課題となったはずです。でも、そういう問題意識を持っていた人がどれだけいたでしょう。

 ・・・・・・でも、突然「バブル」後の社会に放り出された僕(たち)には、それがうまくできません。それは、バブルの終わりに気づかなかったことと関係しています。「バブル」かと思っていたら、一転「平成不況」なのです。このうかつさを、評論家の大塚英志氏は的確にも「終わり損ねた」と表現しています。その責任を上の世代の方に押し付けるつもりはありません。自分がどう生きていくかは、自分で決着をつけるべきことですから。ただ問題は、「終わり損ねた」まま次のスタートは切れないということです。かくして世紀末に〈自分探し〉を始めた僕(たち)は、案の定どこにも行けなくなりました。

 いっそのこと、「終わり損ねた」ことにすら気づかなければ良かったのかもしれません。僕の駒場時代の同期生であるところのホリエモン君がメディアに現れた時、「失われた10年」を過ごしたとは思えない純粋さに、ある意味感心しました。「バブル」前の価値観(あるいは価値観の無さ)と何も変わっていません。新しいものが旧いという「IT長者」の逆説――ホリエモン君は、プロ野球チームやラジオ局が本当に「欲しいもの」かどうかを、よく考えてみるべきなのです(宇宙旅行の話をしている時の君は、とても魅力的に感じるよ)。

 ・・・・・・僕は、日本人全体が「失語症」と化したように、バブルとともに言葉が「抜け殻」になったように感じていました。人に届く言葉、人の心を打つ言葉というのは、自分の思いを深く掘り下げて、身体の底からわき上がるような言葉です。自分の「欲しいもの」を考えようともせず、バブルに浮かれていた人々の言葉が、それこそ泡のように軽くなってしまったのは当然のことでした(僕はホリエモン君の全く腰の入っていない言葉の薄っぺらさに、自分の写し身を見てドキッとしています)。

 ・・・・・・物の分かったふりをする大人たちは、きっとこういうでしょう。“君たちは「自由」をはき違えている。”――その時はこういい返してやれば良いのです。“あなたたちこそ「責任」をはき違えてきたのではないですか?”――「責任」は会社や組織から与えられるものではなく、「自由」の裏返しにあるものです。自分のことは自分で決める、当然のように「責任」は自分にあります。だから「自由」は重いのです。でも、そこから逃げ出したら、「欲しいもの」は決して見つかりません。

 皆さんには、「バブル」後を生きていく野性的な力が備わっているように感じます(いわゆる「学力低下」とは全く違う次元で)。それはきっと“バブルって何?”と笑い飛ばせる強さです。バブルを「終わり損ねた」大人のいうことを、素直に聞く必要はありません。それも自分の自由/責任で考えて下さい。「バブル」後を生きる倫理――それは皆さんが自分自身で切り開いていくものです。

僕は本当に期待しています。

相澤 理

閉じる