僕がずっと昔に通っていた、山口県の小野田高校(ちなみに『生物ハンドブック』の日田悌一先生も卒業生です)は、当時創立八十周年という古い学校で、前身は「如不及堂(にょふきゅうどう)」という私塾でしたが、それが何のことだか、なんと読むのかすら知りませんでした。
後に『論語』を読んだ折に、泰伯(たいはく)篇の中にそれを見つけたときの感動は忘れられません。
「学(がく)は及(およ)ばざるが如(ごと)くするも、猶(な)ほ之(これ)を失(うしな)はんことを恐(おそ)る。」
(学問というものは、追いかけても追いかけても追いつけないような気持ちでやっても、それでもなお見失わないかと恐れるような態度で臨むものだ)
これを塾の名につけた創立者の思いを、時間を超えて感じたように思ったものです。なんていい言葉なんだ!と震えました。だからと言って、その後、その言葉のように立派に生きてきたとは、勿論言えません。でも、いい言葉というのは、机の前に貼っておくだけでも、何かの節目に思い出すだけでもいいんです。知っているだけで、少しはましな人間になれそうに思えるものです。
僕は一浪して、東京で下宿生活を送っていましたが、一人でいるとボーッとしてしまうんですね。そんなときはとにかく目の前のやるべきことをやるしかない。
「小人間居(しょうじんかんきょ)して不善(ふぜん)を為(な)す。」(大学)
(だめな人間はひまにしているとろくなことを考えない)
明治時代の論客高山樗牛(ちょぎゅう)の言葉だったか、何かから引用していたのだったか、こんな言葉があります。
「自分の立っている所を深く掘れ。そこからきっと泉が湧き出る。」
一所に懸命になってやれば、そこから何も生まれないということはない。愚直に励む者を天は決して見放しません。
「天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして失(うしな)はず。」(老子)
(天は大きな網を張っている。その網の目は粗いように見えるが、決して取り逃がさない)
受験に限らず、人生はずっと勉強の日々です。人間、目標や目的のない努力はなかなかできないものです。「志(こころざし)」を立てて、そのために今やるべきことを、やり続けることです。
「志有(こころざしあ)る者は事竟(ことつい)に成(な)る。」(十八史略)
後漢の光武帝(こうぶてい)の言葉です。
主に漢文の世界から言葉を拾ってみましたが、僕自身はもう諸君のようにこれからの人間ではないので、年相応の座右の銘としているのは、老子の言。
「上善(じょうぜん)は水(みず)の如(ごと)し」
(最上の善は水のようなものだ。水は万物をうるおし、ものに争わず、必ず低いほうに流れる。ゆえに大きい)
そんな境地にもおいそれとなれるわけはないけれど、好きですね、そういうの。




