edited by TOSHIN TIMES
大学受験は東進ハイスクール 大学入試は東進衛星予備校 予備校の東進ドットコム










2008オープンキャンパス情報





新 実力講師波乱万丈記

東進タイムズ2008年5月1日号

〜梁塵秘抄(りょうじんひしょう)〜
第2回宮崎 尊先生(英語)
『英単語の集中講義』などの参考書の執筆のほか、雑誌『TIME』や数々のベストセラー作品の翻訳も手掛け、英語界でその名を馳せる有名実力講師。英語を日本語に置き換えるのでなく、英語そのものをとらえる独自の読解法で受験生を難関大合格へと導く。英語を知り尽くした男が最高レベルの授業を約束する。

時代に受け継がれた言葉だけが持つ
言葉を突き抜けた世界

目に浮かんだ800年以上前の光景

日本史や古典が好きな人や、今それらを一所懸命勉強している人なら、この名を知っている人も多いでしょう。この書物は、大学入試問題でも頻 出の『枕草子』『源氏物語』など著名な古典作品とは、内容的に一線を画したかなり異質なものです。何が最も違うのかというと、『枕草子』や『源氏物語』 が貴族社会を中心に描いていたのに対して、『梁塵秘抄』の登場人物は庶民なんです。僕は、貴族の生活よりも貴族たちから粗末で見苦しいと差別されていた庶民が、どのような暮らしをして、どんなことに心を動かされていたのかに興味が湧きました。

僕が高校生のときの古典の教科書には、この『梁塵秘抄』から三作が載っていました。中でも

遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそゆるがるれ

この歌を読んだときに、800年のときを越えて、当時の光景がすーっと見えた感覚に陥ったことを覚えています。

心を捉えて離さなかったある遊女の歌

解釈はいろいろありますが、私はこの歌を詠んだのは、遊女だと思っています。仕事に向かう前の夕暮れどき、男たちの相手をするという嫌な仕事をしなければならない。そんな気持ちを抱いていると、ふと子どもたちの無邪気に遊ぶ声が耳についた。遊ぶために生まれてきたのか、戯れるために生まれてきたのかと思えるような、そんな子どもたちの姿を見ていると、ただ悲しいとか惨めだというだけでなく爆発しそうになる、という歌だと思いました。

この歌に出合った頃、よく聴いていたローリングストーンズの“AS TEARS GO BY”という歌詞の中に、非常に似た境遇を歌っているものがありました。その部分を日本語に訳すと「夕暮れ時に座って子どもたちの歓声を聞いている。子どもたちの笑顔が見える。でもそれは僕に向けられたものではない。僕はただあふれる涙もそのままに、ただ見ているだけ」という何ともセンチメンタルな歌です。

「遊びをせんと……」も“AS TEARS GO BY”も明らかに同じようなことを歌っているのに、僕の心を強く揺さぶったのは「遊びをせんと……」のほうでした。一方は日本から何万qと離れたイギリスで現代に生まれたロック、一方は800年以上も前の日本で庶民が歌った歌。そのときは、なぜ『梁塵秘抄』の方が僕の心を捉えて離さなかったのかはわかりませんでした。あとになってですが、その謎を解く鍵を見つけることができたんです。

半透明の言葉に含まれた 豊穣な世界

加藤周一の『梁塵秘抄』の中で、サルトルの『文学とは何か』を手がかりにして、かくも豊かな表現について言及している箇所がありました。そこで登場したのが、言葉の「透明性」と「半透明性」という考え方でした。

透明な言葉とは、例えば「そこのノートをとってください」というような、その言葉自体にはだれも気にとめない、道具としての言葉です。情報が得られたり、動作が済んだりしてしまえば忘れられていく明示的な言葉。家電製品の取扱説明書なんかに使われている言葉がそうでしょう。

反対に、半透明の言葉とは「遊びをせんとや生れけむ……」というような言葉。子どもは遊ぶために生まれてきたのだろうか、と言葉そのものの意味を理解したあとに、その言葉が指し示す言葉の役割を越えて、言葉そのものがまだ残っている、というものです。半透明な言葉を投げかけられた人は、直感や想像力が刺激され、さらなるイメージを喚起します。

僕は、これを読んだときに、「遊びをせんと……」の歌になぜ、深く惹きつけられたのかがわかった気がしました。「遊び」「戯れ」といった暗示的な言葉によるイメージの喚起に、歌に使われている字の造形的な美しさ、声に出して読んだときの心地よいリズム、耳に残る音の流麗さが加わり、800年の時を越えて遊女の爆発しそうな気持ちを感じて、イメージとして見 ることができたからでした。長い時間の向こうに光る石を見つけたような、とでも言うのでしょうか。

ありのままの人間が詠んだ至極の言葉

つまり、「遊びをせんと……」という歌に感動したのは、言葉の内側に確固たる「物」があったからといえます。言い換えると、美しい形や音が 一体となった言葉は実質を伴い、それが感動を呼び起こすということでしょう。「物」ですから、その見方、解釈は見る者の自由です。つまり、意味は開かれている。そして、開かれた言葉は多くの人のイメージを喚起して、人々の自由な解釈が加えられ、幾多の時を越えて凄みを増していく。これは言葉でありながら、言葉を突き抜けた世界といえます。『梁塵秘抄』の多くの歌の中には、嫉妬をむき出しにした女性や、仏の存在を愚直に信じる人など、かざることのないありのままの人間が登場します。そんな実質を伴った言葉は、時代を越え多くの人々に受け継がれ、現代の僕らに届けられているんです。

情報を伝達するだけではない、意味の向こう側に世界を持つ突き抜けた言葉は、どこまでも飽きることなく味わうことができます。時代を越えてきた作品には、そんな魅力が秘められています。そうしたものに出合うことが古典を読む意味だと思います。

※『梁塵秘抄』……平安時代末期に後白河院によって編まれた、今様(いまよう)と呼ばれる流行歌の集大成。この作品自体は平安末期に編まれたものだが、永く散逸しており、長い時を経た明治44年、歴史学者の和田英松が、偶然に東京下谷の古書店で『梁塵秘抄巻二』の写本を発見し、歌人で、国文学者でもある佐佐木信綱が研究、その結果幻の大著の一部だということが判明した。本来『梁塵秘抄』は本編十巻、口伝集十巻と言われているが、和田氏が発見した巻二と、その後、雅楽の名門綾小路家にあった巻一と口伝集のそれぞれ一部しか発見されておらず、現存するものはごくわずかであり、歴史的、文学的にも大変貴重な文献。