テクニックの向上や記録更新だけでなく、
人間的成長のためのコーチングを目指す
日本の選手育成環境はほぼ世界水準
競泳は、100分の1秒を競う世界。私たちコーチの仕事は選手が最大限の能力を発揮できるように指導・サポートすることです。
私が所属している上小阪校は全国50校に上るイトマンスイミングスクール(以下イトマンSS)の成績優秀者を集めた、強化トレーニング校です。老舗スイミングスクールであるイトマンSSにはこれまでに数多くのオリンピック代表選手を輩出してきた歴史があります。現在私が担当している10名の選手の中には、第28回アテネ大会の200mバタフライで銀メダルを獲得した山本貴司選手や、今年の1月に200m背泳ぎで日本新記録を樹立した入江陵介選手がいます。
指導やサポートをするといっても、トップスイマーというのは自分の弱点やコンディションを自分でよくわかっていますから、練習や日常生活において何かを強制することはほとんどありません。私の役割は、彼らが気持ちよく練習できる環境を整備すること。トレーニングは前もって決めたメニューをそのまま実践するのではなく、選手とコミュニケーションを図りながらその時々のコンディションに適した方法を選択するようにしています。
また、スポーツの世界において、運動生理学に基づいた科学的サポートは今や常識です。例えば最近の日本競泳選手の活躍には目覚ましいものがありますが、だからといって選手の練習量がやみくもに増えている訳ではありません。競泳の練習は生理学上、長時間の水中練習を課すことは好ましくないため、早朝と午後に約2時間ずつ泳ぎます。その限られた時間で最大限効果の得られるトレーニング内容を科学的に追究していったことが、日本の競泳選手が強くなった一番の理由なのです。スポーツ医学の発達や、長年にわたるノウハウの蓄積により、選手を育成する環境が世界のトップレベルになったということだと思います。
入江選手との出会いと葛藤
入江陵介選手の担当コーチに任命されたのは、彼が15歳のときでした。その天才スイマーぶりは、ジュニア時代からイトマンSS内では周知の事実であり、「ついにこの日が来たか」と神妙な気持ちになったものです。嬉しさよりは責務の大きさのほうが遥かに上回り、任命されてから最初の20日間は、指導に入らず彼の泳ぎをただただ観察して過ごしました。この素晴らしい選手の才能を、いかに伸ばしていくか。その未来を自分の手に託されたのですから、十分な準備もしないまま安易に指導に入ることがためらわれたのです。
一流スイマーの条件は礼儀正しさや素直さなどのほかに、「泳ぎの顔がきれい」という点が挙げられます。ここでいう顔と言うのは、フォームを含め、体全体を指します。世界トップレベルの選手のフォームは、体に余計な力がいっさい入っておらず、実に美しくスムーズです。そう言えば額にペットボトルを乗せて泳げることから、一部のマスコミでは入江選手を「バランス王子」と呼んでいると聞きました(笑)。これは、彼の「泳ぎの顔」がいかにきれいかを物語る、典型的なエピソードだと思います。
15才の入江選手はそのような才能を十二分に備えながら、色で言えば真っ白な状態でした。それが自分の指導次第で素晴らしい色にもそうではない色にも染まる可能性があると思うと怖かったですね。20日間の準備期間を経て、ついに指導に入る決意をしたのは、自信が固まったからではなく「彼の才能を伸ばすのだ」という使命感からでした。
コーチが選手を思う気持ちは親が子を思う気持ちと同じ
強化選手の練習メニューは、オリンピックなどの国際大会を目標に、スケジュールを逆算して計画を立てます。いつ頃までに、どのくらいのレベルまで到達していなければならないかを過去のデータからはじき出し、それをクリアするためにメニューを組みます。
競泳のオリンピック選考は、大会での一発勝負です。そのためコンディションをピークに持っていくことが必須であり、体力面だけでなく精神的に最も集中できるようにサポートしなければなりません。
入江選手についても、06年パシフィック選手権では最年少で代表入り、同年ドーハ・アジア大会優勝、07年世界競泳金メダル獲得…と傍から見れば順風満帆のように思われますが、本人はさまざまな葛藤がありました。思うようなタイムが出ずに、悔し涙を流しながら練習することもありましたし、ある大会ではトップでゴールしながら失格になるという体験も味わい、自己記録と大会で結果を出すことのギャップをクリアすることが大きな課題でもあったのです。
そんななか私は、「記録は出ているのだから大丈夫だ」という姿勢を貫きました。選手の不安はコーチがすべて引き受けて、選手には大会で思いっきり力を発揮してもらう、というのが私の目指す理想的関係です。しかし本音を言えば、大会で選手を見守るときは息もできないくらいに緊張します。必死にポーカーフェイスを装ってはいますが心の中はハラハラし通しで、自分が泳いだほうがよっぽど気が楽だと何度思ったことか(笑)。コーチが選手を思う気持ちは、親が子を思うそれに限りなく近いのではないでしょうか。
相手の話に耳を傾け、相手の心に届く言葉で話す
▲ 山本貴司選手(左)と入江陵介選手(右)に指導をする道浦コーチ
30代のあるとき、こんなことがありました。競技前の選手に元気づけるつもりで「頑張れ!」と声をかけたら、「頑張るのは当たり前です!」という答えが返ってきたんです。ハッとしましたね。自分では励ましのつもりが、選手にはそれが逆に負担だったことに気づかされたのです。
コーチに求められる何よりも大切なことは「相手の立場で考えられること」「相手を思いやる心」です。コーチとは言わば「ヒューマンコミュニケーション」のプロフェッショナル。自分の尺度による思い込みを排除し、選手の話に耳を傾け、選手の心に届く言葉を話さなければ効果的な指導はできません。
一つの道を究めるなら、同時に視野を広く持たなければならないという考えから、イトマンSSでは水泳の指導に加え、社会的教養を身につける教育を重視しています。行き詰まったときに一歩引いて状況を観察できれば壁を乗り越えることができます。そしてそれは水泳だけでなく、あらゆる分野に共通する力です。水泳を通じて選手が人間的に成長したのを実感できることがこの仕事の一番の醍醐味であり、記録が出たとき以上の喜びを感じますね。
アトランタオリンピック 背泳ぎ9位 堀井 利有司氏に聞く
「競泳コーチの仕事について」
結果と過程のどちらも大切にしながら、世界に通用する選手を育てていきたい
堀井 利有司(ほりい りゅうじ)
アイエスエス株式会社
イトマンスイミングスクール 上小阪校
強化コーチ
| 1974年 |
大阪府生まれ |
| 1992年 |
近畿大学附属高校卒 |
| 1995年 |
近畿大学在学中にアトランタオリンピック出場 200m背泳ぎ9位 |
| 1996年 |
近畿大学 商経学部※卒 ※2003年より経済学部と経営学部に改編 |
| 1999年 |
イトマンスイミングスクール入社 現在に至る |
世界を舞台に活躍できる選手の育成を目指して
私は現在、道浦と同じく強化選手の指導にあたっています。オリンピック出場への登竜門である、ジュニアオリンピックという大会で上位に入るような選手を、さらにレベルアップさせるのが私の仕事です。選手たちを国際大会やオリンピックに出場させ、さらにそれらの大会で世界を舞台に活躍できる選手の育成を目指しています。
私が担当している選手は8名で、年齢は13歳から20歳くらいまでと幅広いです。ほぼ毎日、朝練と夕練があります。朝練は5時半から7時までで、学校の授業をはさんで4時から夕練が始まります。毎日の練習では、選手一人ひとりの個性を把握し、それを活かせるようにメニューを作成し指導しています。そして、選手の技術面や精神面などすべてをサポートして良い方向へ導くことを常に心がけています。
実は、私は大学4年生のときにアトランタオリンピックに出場した後、水泳とは全く無関係の会社に就職し営業の仕事をしていました。選手時代に、どうしても「練習させられている気持ち」を拭うことができず、スポーツが嫌いになってしまったことが水泳を離れた一つの原因だったと思います。子どもの頃のように純粋に水泳を楽しめなくなっていました。
しかしある日、たまたま営業の仕事中にプールを見かけました。そのとき、皆がプールで楽しそうに泳いでいる姿を見て「自分の居場所はここではないか」とふと感じました。自分の経験、得意分野を活かして仕事ができたら、それは幸せなことだと気がついたのです。その出来事がきっかけで、再び水泳の世界に戻ってきました。
「スポーツは楽しい!」と、心から思えるようになった出来事
コーチを始めて7年目、今からちょうど2年前のジュニアオリンピックでのことです。イトマンスイミングスクールは約20年間連続で総合優勝していたのですが、その年に初めて優勝旗を逃してしまいました。その頃、チーム編成の方針を転換した年でもありました。トップの選手は日本選手権に出場させ、それ以外の選手をジュニアオリンピックに出場させるという、従来とは異なるチーム編成で臨んだのです。主力選手を欠いて苦戦を強いられ、コーチとして選手を勝利に導けなかったことに対して大変悔しい思いをしました。
しかし、そのことよりも、トップ選手が抜けたためにそれまで以上に選手たちが必死になり、チームが一体となって4日間の日程を最後まで真剣にやり遂げたことに達成感を覚えました。「負けたのに楽しい」という、今まで経験したことのない感覚。勝ち続けていたときには感じなかったことに気づかされました。
それから、スポーツや勝負事に対する考え方が変わったんです。スポーツは勝つか負けるかの世界です。自分が担当した選手が成長すれば勝利につながる。その過程は本当に楽しいものです。きっと、スポーツを本当の意味で楽しめるようになったのだと思います。
コーチとして選手に伝えたいこと
私が選手だった時代と比べると、コーチの指導法はだいぶ変わってきています。選手に「無理やり練習させる」のではなく「自分自身で考えさせる」。本人に練習法を選択させて、こちらはそれに対してアドバイスをする。試合の結果だけではなく、練習の過程も大事だということを選手に伝えていきたいです。
また水泳を通じて、選手には一人の人間としていろいろなことを学んでほしいと思います。スポーツはもちろん、社会全体の動きを理解できる大人になってほしい。私もコーチとして水泳に携わりながら、改めて一社会人としての責任を再認識しています。
高校生の皆さんには、「ありがとう」など感謝の気持ちを素直に言えること、一般常識など社会的な知識を身につけることを心がけてほしいですね。そして自分の夢や目標を持って、今という時間を大切に過ごしていってください。