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日本と国際社会の架け橋、
せめてその一端を担えればという
志を抱いた少年時代 |
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| 私の少年時代は「書に淫する」というか、本ばかり読んでいました。敗戦直後に読んだ新渡戸稲造の著書の中に、「太平洋をかける橋になりたい」という言葉があり、震えるほど感動したことをよく覚えています。日本と国際社会との風通しをよくする仕事に就きたいと漠然と思っていたので、橋は無理でもせめて橋げたの一つになれば・・・という思いを強くしました。
父が定年退職後、事業に手を染めるも失敗しましてね。働きながら青山学院大学の二部に通っていたんです。在学中に日米学生会議の代表に選ばれ、スピーチをしたことが縁となり、ハワイ大学に編入しました。さらに大学院で文化人類学を学んで、帰国。予備校講師を経て日本生産性本部の試験に合格し、同時通訳者としてスタートしました。とはいっても、当時『同時通訳』という職業があった訳ではありません。一般に広く認知されるようになったのは、衛星放送が導入され、世界同時放送が始まった頃だと思います。 |
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