お使いのOS・ブラウザでは、本サイトを適切に閲覧できない可能性があります。最新のブラウザをご利用ください。
INTERVIEW
06

ゾウのフン
から見える人間社会
27年間ケニアに住んで学んだゾウと人類共生のヒント アフリカゾウ研究者・中村千秋 さん

動物好きでも、ゾウ好きでもなく、「アフリカに行きたい!」という想いが高じてアフリカゾウのフンの研究者になったという異色のキャリアを持つ中村千秋(なかむら・ちあき)さん。 大学卒業後に1年間アフリカ放浪の旅に出たあと、旅行会社勤務(半年で退職)、塾講師を経て30歳のときにようやく研究者としてケニアに渡る機会を得る。 ケニアでは、野生動物の楽園である国立公園内の小屋に一人暮らし。ライオン、ゾウ、ヒヒなどと身近に接するワイルドな生活を送りながら、ゾウのフンを求めて車を走らせた。現在は、「ゾウと人間の共生」を目指して地域住民の生活支援を行う。生物の多様性だけではなく、「多質性」に注目し、独自の視点で共生の道を探っている。 取材・文:川内イオ/写真:瀧川寛/編集:川村庸子

その後の人生を決めた恩師との出会い

1989年から単身ケニアに乗り込んで、アフリカゾウの研究をされてきたんですよね。もともとゾウが好きだったんですか?

中村 いえ、わたしは動物が苦手で、ゾウにも興味はなかったんですよ。最初に関心を持ったのはアフリカです。わたしは中学生の頃から、「みんな同じ」を求める画一的な日本の社会や学校に反発があったんです。そのうちに、「一番日本から遠くて、一番日本人がいないところ」に行きたいと思うようになった。そこで思いついたのが、アフリカだったんです。

その想いは、高校生になっても変わらず、ある日「一番アフリカ的な存在は野生動物だ。動物に関わる仕事といえば獣医だろう」と思い立ち、獣医を目指しました。でも、「女は良妻賢母を目指せ」という考えを持つ大正生まれの父に反対され、諦めざるを得ませんでした。「ただし、教師の道がある理学部の動物学や生物学なら許す」と言うので、自分が目指すような生物学を学べると思えるいくつかの大学を受験し、唯一合格した女子栄養大学に入学しました。

第一志望ではなくて落ち込みましたが、幸運だったのは、大学に動物学者の小原秀雄先生(*1)がいたことです。高校時代に読んだ小原先生の著書『動物の科学』には、教科書に載っていないような動物の世界が描かれていて、とても印象に残っていました。それで入学式の翌日から小原先生の研究室を訪ねて、それから4年間、入り浸っていました。

当時のわたしは、ちっぽけな日本から脱出して、アフリカでとにかく大きなことを勉強したいと思って小原先生に正直な気持ちを話したところ、小原先生は「そりゃ、いいねえ」とおおらかに受け入れてくれた。そのお陰で、陸上で一番大きな生物であるアフリカゾウの研究を始めたんです。アフリカゾウのオスの成獣は、体重が5,000kgもあるんですよ。

それからどうやってゾウの研究者になったのですか?

中村 大学時代は「象牙の流通」の研究などをしていましたが、そもそも何の実績もない新卒の女性が日本でアフリカゾウの研究に携わるのは難しい。そこで卒業後、アルバイトで貯めたお金でアフリカに向かい、仕事を求めてアポなしで現地でフィールドワークをしている研究者を訪ね歩きました。しかし門前払いにあってしまい、結局、1年間アフリカを放浪して帰国しました。

それから渋々旅行会社に就職したのですが、その企業文化に馴染めずに半年で退職し、塾講師の仕事を始めました。これが良かったんです。塾の仕事は夜だったので、昼間に小原先生の研究室に顔を出せるようになって、英語の論文を読んでいるうちに「ゾウの研究はたくさんあるけど、ゾウのフンの研究ってまだあまりされていないな」と気づきました。
それから、大学で食品分析をやっている先生に分析術を教わったり、別の大学の研究室に通って、生理学と栄養学の技術と理論を学んで、フンの成分分析を始めました。昼間は動物園でフンをもらって分析し、夜は塾の講師という生活を5、6年続けましたね。

そこから野生のゾウの研究につなげていきました。小原先生の紹介を受けて当時ケニアの野生生物保護管理庁(現ケニア野生生物公社)長官だったオリンド博士を通して、研究許可をもらったんです。とはいえ、資金は自分で調達しなくてはならなかったので、塾講師をして稼いだお金を持って、1989年にケニアに飛びました。


水場にやってきたゾウとキリン。地平線まで60kmほどある(2016年) Photo by Chiaki Nakamura
  • *1
    動物学者。国立科学博物館助手、女子栄養大学助教授を経て、1969年、教授就任。1998年から名誉教授に。1982年、世界野生生物基金から自然動物保護功労賞、1988年、国連環境計画(UNEP)から「グローバル500賞」を受賞。動物に関する著書が多数ある。

調査小屋でのワイルドな生活

ケニアではどのような生活をしていたのですか?

中村 最初は小原先生の親友で、当時、野生生物保護管理庁の研究課長だったポール・チャベタさんの家にホームステイしていましたが、それからすぐ、ツァボ・イースト国立公園(*2)のエリア内にある小屋に移住し、2007年まで一人暮らしをしていました。廃屋を修繕したもので、「調査小屋」と名づけました。

小屋の周囲は見渡す限りの大自然なので、朝起きたらライオンが家の前で寝ていて外出できなかったこともあるし、外出している間にゾウが水道の蛇口に寄ってきて、何時間も家に入れなかったこともあります。ハイラックス(*3)やディクディク(*4)は、小屋の周りでしょっちゅう見ましたね。滅多に人に会いませんでしたが、部屋にはヤモリがたくさんいるし、カエル、サソリ、ムカデ、ヘビも出るので毎日賑やかでした。

嫌いなのは、バブーン。日本語ではヒヒです。バブーンは、徒党を組んで残飯を漁りに来るんですよ。ゴミは穴を掘って深く埋めているのに、探し当てて食い荒らす。人間の女である私を見て発情するオスもいて、背後から襲われたことも。宿敵ですね。

2007年からは国立公園の外に住んでいますが、ゾウは記憶力が良いので、わたしの存在を憶えてくれているんですよ。ゾウは観光客の車には近づかないのですが、わたしの乗っている車には近寄ってきて、まるで「ああ、チアキか」と挨拶をするかのように見えます。


ツァボ・イースト国立公園内の調査小屋。ここに2007年まで暮らしていた(2006年) Photo by Chiaki Nakamura

当初の想定通りに研究は進みましたか?

中村 ケニアに行ってから90年代にかけて取り組んだフンの研究は、四輪駆動車に乗り、福島県ほどの広さのツァボ・イースト国立公園内でゾウとフンを探し回ることから始まりました。
テーマは、ゾウのマイグレーション(季節的移動)。ゾウは季節ごとに長距離移動します。理由についてはさまざまな説があるのですが、そのひとつとして栄養素、ミネラルなどが関係あるのではという仮説を立てました。

研究を始めてまず驚いたのは、野生ゾウのフンは匂わないということでした。日本で動物園のゾウのフンの分析をしていたときは悪臭に悩まされたので、食物や生活環境が違うとここまで違いが出るというのが発見でした。
実際に調べてみると、フンに含まれるナトリウム、カリウム、カルシウムなどから季節差が出てきました。とりわけナトリウムは差が大きくて、乾季の下旬には非常に多くなり、雨季には非常に少なくなる。こうしたフンに含まれる栄養素の変化は、分析によって明らかになりました。

季節によって差が出るのは、食べているものが違うから。ということは、移動の一つの要素になっている可能性がありますよね。人間が増え続けて、もともとゾウが通っていたルートに家を建て、畑をつくることで人間とゾウの間に問題が起きるようになった。もしゾウが食べる植生が移動の要因の一つであるなら、それが良いか悪いか、やるかやらないかは別にして、「人間が植生を調整することで、ゾウが移動するルートをコントロールすることも可能ではないか」という視点が生まれるわけです。

  • *2
    ケニア東南部に広がる約2万km2のツァボ国立公園の東側に位置する。ツァボ国立公園の面積の56~66%を占め、日本の都道府県で3番目に大きい福島県ほどの大きさがある。
  • *3
    別名イワダヌキ。哺乳綱イワダヌキ目(ハイラックス目、岩狸目)イワダヌキ科(ハイラックス科)。耳を小さくしたウサギのような大きさと外見をしている草食動物。中東やアフリカのサバンナの岩場・岩山等で群れをつくって生活している。
    ハイラックス – Wikipedia
  • *4
    体高30~40 cm程度で子鹿にそっくりな外見をしているが、偶蹄目ウシ科の草食動物。オスには短い角がある。低木林や半砂漠などに生息。ディクディク – Wikipedia

「コミュニティ・ワイルドライフ」へ

アフリカゾウを研究することによって、どんな気づきがありましたか?

中村 アフリカには、推定で約50万頭(2016年初頭時点)のゾウがいます。地域によって植生も違うので、摂食する植物は数百種類から1,000種類を超えるとされています。そして、採食された植物の3分の2は、消化吸収されずに排泄されるため、そのなかには多くの種子が含まれています。ゾウは一日に約140~200km2ほどの範囲を移動するという記録もあり、乾季と雨季の変わり目のマイグレーションでは、さらに長距離を移動。広大な行動範囲を持つゾウのフンが、アフリカの「多様な植生の源」になっているのです。

ゾウの役割は、これだけではありません。川底の水を掘り当ててほかの野生動物も使える水場をつくったり、白アリのアリ塚を壊して、ミネラルなどの栄養成分をほかの動物が採食できるようにするなど、アフリカ大陸の生態系を守り、育む要にもなっています。
ゾウは体が大きいので妊娠期間が22ヵ月もありますが、なぜあれだけ大型になったかというと、やっぱり役目があるから。ゾウを中心とした大型野生動物が、地球の大自然をつくってきたのだと思います。人間は、これまで大型野生動物が長い年月をかけてつくってきた世界に依存して生きてきた。だからこそ、動植物との共存の方法を考えていかなきゃいけないと思うんです。

その想いが、現在の活動につながっているのですね。

中村 はい、現在はツァボ・イースト国立公園に隣接し、長い間、野生のゾウとのトラブルに悩まされてきたビリカニ村で、女性たちの自立支援を行っています。
1993年にビリカニ村を初めて訪ねたとき、村の女性たちの仕事の一つは水運びでした。水運びは、遠くまで水を取りに行き、水を満載した重い容器を運ぶという重労働なだけでなく、ゾウとの遭遇という危険もあります。そこで、共同の水場をつくることから彼女たちとの関係が始まりました。
その活動が発展し、いまでは洋裁教室を開催。村では洋裁師の資格を持つ女性が増え、オリジナルの縫製品を制作し、販売できるようにまでなりました。また、子どもたちのための学習室もつくりました。

これらは一見、ゾウの保護とは関係がないように思われますが、野生のゾウとのトラブルを抱えている地域の生活向上を支援し、野生動物保護への理解を求める「コミュニティ・ワイルドライフ」と呼ばれており、ケニアでは一般的な活動なんです。

国立公園という境界線を引いたのは、人間です。もともとゾウが暮らしていた土地に人間があとからやってきて、家を建てて、畑をつくる。そこにゾウがきて作物を食べると、人間にとっては作物を荒らす害獣になる。なかには、ゾウが大嫌い、怖いという子もいます。
ビリカニ村でもゾウとのトラブルは続いていますが、女性たちには「共同水場も洋裁のプロジェクトもゾウがもたらしてくれた」という意識があるため、子どもたちにも「ゾウは敵じゃない。大切にすべき存在だ」という認識が広まっています。こうして、自然生態系と地域住民のバランスのとれた関係をつくっていければと思います。


共存のために支援しているビリカニ女性たちの会の洋裁教室の様子。ツァボ・イースト国立公園周辺地域にある(2011年) Photo by Chiaki Nakamura

ゾウの研究で気づいた「生物の質」の重要性

中村さんがケニアに渡ってから、27年。今後、新たに取り組みたいことはありますか?

中村 生物の多様性という言葉がありますよね。多様というのは「数」を指しているのだと思いますが、わたしは、生物には「質」もあると考えています。ツァボ地域でゾウが絶滅するとほかの生物も連動して絶滅し、生態系が麻痺してしまうため、ゾウは、傘のように生態系全体を覆って守っている「アンブレラ種」と言えるでしょう。わたしはこの「生物の多質性」に着目して、社会科学的かつ環境的な面から大型野生動物の重要性を追求したいと思っています。

一昔前の研究者がつくったもので、深い溝を掘って大型野生動物が入れないようにした実験区画があるのですが、そこは植物が伸び放題で、植物の化け物屋敷のようになっています。本来であれば大型野生動物が難なく食べてしまうアカシアの硬いトゲが広がっていて、人間も、小動物、鳥類も寄りつかない。大型野生動物の不在によって、バランスが崩れてしまったのです。

近年のアフリカは経済成長とともにインフラ整備が盛んで、自然環境がどんどん縮小しています。このまま生産性を追いかけて拡大し続ける社会や生活の仕方を変えていかないと、多様性も多質性も失われ、人間社会も崩壊してしまう。人間中心ではなく、アフリカゾウの立場から世界を観ようと努力することで、人間社会の「いま」をより客観的に見ることができるようになるのではないでしょうか。
ゾウが生活する場所、アフリカの自然自体を守ることが、アフリカの動植物、ひいては人間社会を守ることにもつながるということを伝えていきたいですね。