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INTERVIEW
07

ユネスコ無形文化遺産
「和食」って何?
料理書から読み解く日本のすがた 食文化研究家・東四柳祥子 さん

2013年、「和食 日本人の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録された。土地の歴史や風習などに根ざした、かたちのない食文化を守り伝え、尊重しようというのがねらいだ。このニュースに触れたとき、普段何気なく食べている食事の思いがけない栄誉に、戸惑った人も多かっただろう。そして、改めて「和食とは何か」と考えてみると、答えるのは難しい。 食文化研究者・東四柳祥子(ひがしよつやなぎ・しょうこ)さんは、近代の人々が著した料理書を読み解くなかで、和食の柔軟さに気づいたという。歴史書では知りえない和食に込められた想いとは何か。いま未来に伝えたい、和食の魅力について伺った。 取材・文:小野民/写真:大島拓也/編集:川村庸子

「料理書」を研究するってどういうこと?

食文化、しかも料理書ってちょっと変わった研究領域ですよね。

東四柳 そうですよね。料理書を読み解いて食文化や歴史を研究する分野は、まだまだ亜流と言えるかもしれません。でも、海外ではそういった研究も進んできているんですよ。自分の関心が研究テーマになるかどうかは、取り組む人次第。最初から無理だと諦めないで、開拓していける時代になってきていると思います。食文化研究についても、もっといろんな角度から料理書を研究してくれる仲間が増えてほしいですね。

具体的には、どんな研究をするのでしょうか?

東四柳 大学院に入学早々、近代の日本でどのくらいの料理書が出ていたのか調べることに着手しました。あちこちの図書館を訪ねて閲覧可能な615冊の料理書(1860~1930年)にあたり、その分析結果を修士論文にしました。
大学院の恩師である食文化学者の江原絢子先生の口癖は、「一つ一つの原典にあたる時間を大切にしなさい。丁寧に向き合う姿勢を貫けば、あるとき資料の方から語りかけてくれる瞬間があるから」。
いまも新しいテーマの研究に取り組むときには、先生の言葉を肝に銘じ、できるだけ多くの文献リストを整備し、必ずすべての原典に目を通します。なかなか大変ではありますが、たくさんの資料と出会う時間はやはり刺激的ですし、ふと訪れる気づきの瞬間こそ、研究の醍醐味だとも確信しています。

とても地道な作業で根気がいりますが、歴史書に書いていない事実を知る驚きや楽しさがあって、ワクワクしますよ。例えば、異国の食文化を受け入れていく過程って、涙ぐましい失敗の連続なんです。フォークとナイフの使い方がわからなくて、ナイフを口に入れて流血事件が起こっている絵や、オーデコロンをワインと間違えて飲んだ失敗談、テーブルナプキンを風呂敷と勘違いして、食べ切れなかった料理を包んで持ち帰ってしまった笑い話など、いまでは信じられないような記録があちこちに出てきます。

あとは、料理名の翻訳もおもしろい。明治時代の料理書を見ると、コロッケは「刻み肉入りの天ぷら」、ライスカレーは「飯の餡かけ」、サラダは「やさいの酢の物の類(たぐい)」、パイは「饅頭」……といった具合に言い表されています。こうした言葉選びの試行錯誤を、いつも微笑ましく思います。
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日本人が牛乳やお肉を食べるようになったワケ

近代の料理書が、先生に語りかけてくることはどんなことなのですか?

東四柳 まず言えるのは、明治から昭和初期頃までの時代が、これまでの食文化を見直す時期だったということです。そして、「家庭は女性の管理領域」という概念が誕生した時代でもありました。
江戸時代までは、人前で食のことを語るなんて「はしたない」こととされていましたし、出版された料理書もほぼ男性料理人向けでした。それが、近代になって女性読者を明確にターゲットとした料理書が出版されるようになるんです。

数多くの資料にあたっていると、料理書の流行も見えてくるんですよ。明治初期には、新たに交流が始まった西洋諸国との交際に必要な西洋料理の知識やマナーを伝える西洋料理書が誕生します。それと同時に国策として掲げられた「富国強兵」の下、強壮な身体づくりのために必要とされた肉食を重んじる料理書が流行。また明治中期になると、強い国家づくりを実現するための家庭料理研究の重要性も叫ばれるようになり、経済的に滋養のある食材を使った食事をつくることが、「家庭向け料理書」という新たなジャンルのなかで叫ばれるようになるんです。

滋養のある食材って例えばどんなものですか?

東四柳 牛乳やお肉のような動物性食品ですね。それまでの日本人には、馴染みのない食材です。
以前、乳製品関係の調査で、料理書も含めた明治・大正時代の乳製品関連書籍、約600種の原典にあたったことがあります。乳製品というと、近代以降ずっと嫌われていて、第二次世界大戦後に本格導入された学校給食で積極的に使用され、定着したというイメージがあるかもしれません。けれど、実際に当時の料理書などを紐解いてみると、大正時代にすでにアメリカの乳製品推奨運動が紹介され、国内でも牛乳を飲ませて、強い子どもをつくろうという動きが興っています。
ただ当時は、「人は人乳、牛は牛乳」という言葉が出てきたり、「乳製品は中毒を起こす原因となる危険な食べ物だ」と考える反対派もいました。特にチーズに関しては、「命を落とすきっかけになる食べ物だから避けたほうがいい」なんて、言い切る人もいたくらいです(笑)。

しかし第一次世界大戦や関東大震災を経験して、いよいよ子どもの死亡率の高さが社会問題になってくると、強壮な身体づくりを叶えてくれる牛乳や乳製品の効能が注目を集めるようになりました。特に牛乳への関心は高く、料理に使ったり、ココアに混ぜて飲ませたりといった工夫も見られるようになります。そこには、日本の未来を担う子どもたちを健康にしたいという切実な想いがあった。
料理書に描かれているのは、生活に基づいた実感からしか知りえない声。その時代を生きた人々が求めていたものや期待していたものが、確かに伝わってきます。

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100年前のマドレーヌのレシピを再現したもの。レシピの再現は、授業のなかでも人気がある

料理好きの夢は「料理人」だけじゃない

そもそも、なぜ研究者の道に進んだのですか?

東四柳 出発点は、祖母や母が料理上手だったことが影響していると思います。小学生の頃は、母との料理の時間がいつも楽しみでした。お味噌汁をつくるにしても、「まず味見してみて」って言われて、そのあとに「ここにね、ネギをパッと入れたらおいしくなるやろ」と、味の変化を教えてくれる瞬間にいつもワクワクしていました。

実家の改修をきっかけに、わたしだけ中学時代の1年半、祖父母と暮らすことになったんです。祖母の食事は、季節を意識した和食が中心。とにかくいつも夕飯の時間を楽しみにいたのを覚えています。いい調味料を使うことの大切さも、祖母が気づかせてくれました。ただお弁当も祖母がつくってくれたんですが、いつも卵焼きとソーセージしか入っていなかった。おいしかったけれど、ちょっと恥ずかしくて、ときどき隠して食べていたのを覚えています(笑)。祖母なりに、子どもが喜ぶメニュ―と考えていたんでしょうね。

でもある時期から、食卓にハンバーグなどの洋食が急に並ぶようになって。不思議に思っていたら、祖母の部屋でびっしりとレシピが書かれたティッシュ箱を発見したんです。どうやら祖母はテレビ番組を見て、孫が喜ぶようなレシピの情報を仕入れていたんですね。
そんな祖母の気持ちがすごくうれしくて、わたしも料理上手になりたいと思うようになりました。高校生になってからは、料理雑誌を毎月買って、身近にある材料で工夫してつくって、というのを繰り返していました。

昔から研究熱心だったんですね。でも、そのまま料理の道には進みませんでしたよね。

東四柳 大学は得意だった教科から考えて迷った結果、英米文学科に進んだんです。だけど、料理を学ぶことへの気持ちを捨てきれず、大学時代に料理番組や料理雑誌のアルバイトにチャレンジしました。とにかく行く先々で出会う料理関係のみなさんが生き生きと仕事をされていて……それで、食関係の仕事に就きたい気持ちがどんどん大きくなっていっちゃったんです。

周りのみんなが就活を始めた頃に、わたしはどうしようかなぁと思案しながら自分の書棚を見ていたら、食文化関係の本がたくさんあることに気づきました。そんなとき、江原先生の論考に感銘を受けて、先生がお勤めされていた東京家政学院大学を思い切って訪ねたんです。先生と直接お会いできたとき、「いま大学院の研究はどんどん学際的になってきているから、これまでの学びを土台に食文化研究にチャレンジしてみては?」とありがたいお言葉をいただけて。そこで、大学院を受けることを前提に先生のところに通い始めました。

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研究室の本棚には、世界のレシピ本から分厚い図鑑まで「食」にまつわるあらゆる本が並ぶ

「和食」って何? 研究から見えてきた答え

研究を続けてきて見えてきた、いま、大事だと思っていることは何ですか?

東四柳 制約のあった時代もありますが、外国の食べものを柔軟に取り込む姿勢を貫いてきたからこそ、和食文化の多彩さを形成できたのだと感じます。また、西洋料理や中国料理など外国のメニューを、日常食に取り入れることを勧める動きは、明治時代に確認できます。この時代の主婦たちも、何をつくっていいか悩みながら、献立のバリエーションを広げようと料理書に答えを求めていた。社会背景は違っても、現代と同じことで悩んでいますよね。

先ほどもお話した家庭向け料理書が誕生したのが、ちょうど1900年代になった頃。女性読者をターゲットとし、「家庭」という言葉を冠した料理書もどっと増えました。例えば、『四季毎日三食料理法』(1909年)という料理書には、365日分の朝、昼、晩の献立案が掲載されています。
実際1893(明治26)年には、福沢諭吉が日本で初めての新聞料理記事「何にしようか」の連載を開始します。日々の食事づくりに悩む主婦の声に答えるかたちで、毎日数品のおかずを紹介し、季節を意識した食卓の提案などに勧めたりもしています。ピラフやロールキャベツも登場しますよ。

なぜ、毎日同じ食事内容ではいけないのか。それは、家庭の和楽を保つため。なかには「日々の食卓に変化があれば、旦那さんも外食遊びをせずにちゃんと帰ってくるよ。だからお料理上手な奥さんを目指してね」と説く料理書もあるんです(笑)。不経済を戒め、一家団欒を重んじる想いから、家庭の和食は進化したんです。

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研究室の壁には、おいしそうな写真がずらり

和食と言えば、味噌汁や肉じゃがのイメージがありますが、結局何なのでしょうか?

東四柳 実は、いまわたしたちが食べている食材に、日本原産のものってほとんどないんです。山葵(わさび)、ミョウガ、ウド、三つ葉……と数えるくらい。日本の伝統調味料である醤油や味噌も、ルーツをたどれば、7世紀頃に大陸から入ってきた醤(ひしお)が原型だと言われています。そう考えると、和食は外国から受容した食材の組み合わせで編み出されたアレンジ料理がベースとなっていることがわかりますよね。ちなみに家庭の定番料理・肉じゃがも、もともとはビーフシチューにヒントを得て誕生した説が有力とされています。

わたしは食生活史の授業もやっているのですが、「和食」といわれているものが、いかに海外の食文化の影響を受けているかについて変遷を踏まえて教えていると、学生たちは「和食って、外国からさまざまなことを教えてもらいながら発達してきたんですね」と感想をくれます。この感覚が大事。外国に学ぶ姿勢を大切にして、日本人の嗜好にあうものにアレンジしてきた歴史こそ、日本の食文化の尊さのはず。日本人の食生活の系譜を知ることは、世界の食文化の理解にもつながっていくと思います。

ただ継承という面を考えると、わたしたちの祖先は数々の外国の食文化との出逢いのなかで、比較的柔軟な姿勢を貫いてきた経緯があったことも事実ですが、だからこそ、いま目の前にある食文化を意識的に守ろうとしなければ淘汰されてしまうということも忘れてはいけないと思います。各地の消えつつある食文化や、すでに消失してしまった食の伝統を見つめ直す時間はとても大切です。文化は変化していくものだからこそ、守るべきものを自分の眼で見極めてほしい。
その眼を養うためには、多角的に歴史を学んでいかなくてはいけません。何より食文化に関する知識は、仕事に結びつかなくても、知っていて損はないはず。普段の生活にこそ、きっと役立ちます。

本屋に並ぶ料理書も、100年先にはいまのわたしたちの生活を読み解く、研究対象になるかもしれないんですね。

東四柳 そうなるといいのですが……。いま、料理書は乱立時代で、「継承されるべき食文化を記す」という目線で本づくりをされているのか、疑問に感じることもあります。家族や仲間で「宝物」として享受できる料理書が生まれて、いまここに生きているわたしたちの食文化が、次の時代に受け継がれていってほしいと思います。
料理書は、決して単なる料理のレシピを伝えるだけではなくて、その時代を生きた人々の悩みや憧れ、家族への想いなど、社会的な背景が丸ごと含まれた大切な「文化財」なのですから。
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