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INTERVIEW
09

大河ドラマを支えた
“地味にスゴイ”
仕事!?
歴史学者が挑んだ「時代考証」の舞台裏 歴史学者・丸島和洋 さん

2016年に一大ブームを巻き起こした大河ドラマ『真田丸』(NHK)。これまで「真田幸村」の名前で知られていた主人公を、認知度がほぼ皆無だった「信繁」という本名で描いたこの作品は、「史実に忠実な本格ドラマ」と歴史ファンからの支持が厚かった。そんな『真田丸』のリアリティを支える「時代考証」という仕事を担ったのが、戦国時代を専門とする歴史学者の丸島和洋さんだ。放送後に毎回ツイッターで丹念な解説を発信し、2万人近くのフォロワーを集めるなど(放送終了に伴い閉鎖)、時代考証の新しい姿を提示した丸島さんに、歴史研究の魅力について話を伺った。 取材・文:清田隆之/写真:小野奈那子/編集:川村庸子

「四六時中、電話応対する日々でした(笑)」

『真田丸』で担当された「時代考証」とは、そもそもどういうお仕事なのでしょうか?

丸島 ごく簡単に言えば、歴史ドラマを「史実に則しているかどうか」の観点からチェックしていく仕事です。通常であれば歴史学者の大家が務めることの多い仕事ですが、『真田丸』の制作サイドには「リアルタイムで論文を書いている若手・中堅の研究者を起用したい」という意図があったようです。それで、ちょうど真田氏にまつわる本を2冊書いていたというのもあり、縁あってわたしに声をかけていただきました。

一口に時代考証といっても、作品によってその関わり方はさまざまです。台詞直しをして、撮影後の映像を確認し、問題がないかをチェックするだけという場合もあれば、脚本の段階から関わり、議論を重ねながら作品づくりに参加するケースもあります。

『真田丸』は圧倒的に後者。世間的にほとんど知られていない「信繁」という本名を使用すると聞いて、制作陣の本気を感じました。「史実を重視する」という宣言に等しいわけですから。これに応えたいという気持ちが高まり、全力でお手伝いしようとオファーを引き受けました。

『真田丸』では具体的にどのような作業をされたのですか?

丸島 今回は原作モノではなかったので、脚本づくりの段階からガッチリ関わりました。まずは作劇に必要な資料の提供ですね。例えば登場人物を考えるための参考資料として、真田家や武田家にはこんな家臣がいて、こういう役割を担っていたということをまとめたリストをつくりました。もちろん制作陣も十分リサーチをしていますが、ものによっては専門家しか知らないような情報もある。そういったものも含め、個人の見解を付して提供していきました。

そして、三谷幸喜さんが書かれた脚本を確認し、気になる箇所にチェックを入れて戻すという作業を重ねました。具体的には、言葉遣いですね。「当時そんな言葉はなかった」とか「そんな話し方はしなかった」「この単語は当時違う意味で使われていた」といった視点でセリフをチェックしました。あとは、「このような出来事はあり得ない」「この人物がここにいるのはおかしい」など、史実に照らし合わせてシーンを検証したり。

とにかく制作期間中は、何か疑問があれば四六時中プロデューサーから電話が入るという日々でした。その場で答えたり、調べ物をしてから折り返したりと、そういうやりとりが1日3〜4回はありました。だから、ちょっと電話がないと「大丈夫かな?」と不安になっていましたね(笑)。

いかに史実と創作のバランスを取るか

そうやってドラマのリアリティを支えていくのが時代考証という仕事なんですね。

丸島 ただし、史実に忠実でさえあればいいのかというと、そうではありません。例えばセリフにしても、戦国時代に使われていた言葉だけで構成するのは不可能です。例えばドラマでは「我ら」という言葉が度々出てきましたが、当時は「わたくしめが」といった意味が基本になるんですよ。つまり一人称単数形なんですね。「我々」も同じで、複数形ではないことが多いし、謙譲表現でもある。直すとすると、「一同」あたりでしょうか。でもちょっと改まった感じがするし、頻繁には使いづらい。ほかにも候補はありますが、視聴者がパッと聞いてわからない言葉になっては本末転倒なので、やはり「我ら」のほうがいいだろうということになる。

このように、史実と創作のバランスをいかに取っていくかが、時代考証の難しいところです。さらに映像作品なので、撮影上の都合も大事な要素です。例えば戦の際に使用する槍というのは、実は「突く」のではなく、遠心力をつけて「叩く」ための武器なんですよ。だから実際は数メートルもある。でも、そんなに長い小道具は作るのも映すのも大変なので、さほど長くない槍になり、立ち回りでも突くという動作が増えてしまうんです。

まさか槍が叩くための武器だったとは……初耳でした。

丸島 いわゆる“チャンバラ”なんかも、実は不自然な光景なんですよ(笑)。合戦というのは最初に弓・鉄砲・投石といった長距離の攻撃があり、その援護射撃のもとで槍衆や騎馬衆が突撃して、槍を落としたり接近戦になったら刀を振るう。組み討ちになって、とどめを刺す時は脇差しと、徐々に距離を縮めていくのが一般的なあり方です。いきなり刀で斬り込みに行くなんてかなりイレギュラー。こういう戦法こそ、当時の史料に「忍(しのび)」「透破(すっぱ)」「草(くさ)」などと書かれた人たち、つまり忍者が得意とした待ち伏せ奇襲戦術です。『真田丸』ではなるべくそのプロセスを意識した描き方をお願いしました。

あと、今回こだわったのは、「百姓の帯刀(たいとう)」です。この時代、男性であればお百姓さんでも元服後には刀と脇差しを身につけるのが慣わしでした。それがないと子どもか下人(げにん)という奴隷階級だと見なされてしまう。だから登場するお百姓さんにも帯刀をと提案したのですが、最初はやはり「百姓=丸腰」というイメージもあり、演出上わかりづらいということでなかなか通らなかった。でも、粘り強く提案し続けた結果、九度山(*1)のシーンでようやく実現しました。

もちろん、最終的に判断するのは脚本家の三谷さんであり、演出でしたらプロデューサーや監督です。史実通りにならないことだって多々ありますし、時代考証も撮影現場にずっと張り付いているわけにはいかない。しかし、修正や提案が不採用になった場合でも、今回のスタッフはその理由を丁寧に説明してくださったので、こちらとしても気持ち良く仕事ができた。コミュニケーションがしっかり取れ、チームとしてとても上手く機能していたと思います。


  • *1
    真田信繁と父・昌幸が「関ヶ原の戦い」で敗れたあとに謹慎させられていた場所。『真田丸』の終盤におけるハイライトのひとつ。

歴史学者が対峙する“史料”とは?

丸島さんはどういったきっかけで歴史学を志したのですか?

丸島 自分の記憶をたどると、小学校低学年の頃に、子ども向けの三国志を買って貰ったのが最初だと思います。ただ本格的に歴史に興味を持ったきっかけはおそらくファミコンの三国志(笑)。小学5年生の頃かな。その前後から父親の本棚にあった司馬遼太郎、柴田錬三郎、早乙女貢、陳舜臣なんかの歴史小説を片っ端から読んでいきました。なかでも柴錬三国志にのめり込んでいて、これだけは小学5年生より前に読み終えましたね。

国語の時間に、漢字の勉強として挙手で二字熟語を答えていったんですが、柴錬の講談調の文章から抜き出した熟語ばかり回答しまして(苦笑)。若い先生だったので、講談の熟語なんて馴染みがないから、耳で聞くと漢字に変換できない。困らせてしまったのをよく憶えています。たとえば、「笑止」とかね。笑止千万なのは、僕の回答姿勢のほうだったんですけれど。

実はその後、中学の終わりあたりから体調を崩してしまい、学校を休みがちになって、高校生になってからも入院を繰り返していたんですよ。ちょうどその頃ちくま学芸文庫から『正史三国志』(全8巻)が出て、入院中に読破しました。
そんな状態だったので、将来は家業の会社を継ぐのはちょっと無理だろうとなり、自分の好きな仕事じゃないとやっていけないなと思った。それで「歴史一本にしよう」と決めたのがいまの道に進んだきっかけです。ただ、三国志は確かに楽しいけれど、古い時代なので史料が非常に少ない。どうせなら史料のたくさんある時代がやりたいということで、専門を戦国時代にしました。

時代によって史料の多い少ないがあるんですか?

丸島 わたしたち文献史家が使う史料の多くは「文書(もんじょ)」と呼ばれるものですが、意識して残そうとしないと失われてしまう。会社でつくった書類や、友人からもらった手紙だって、全部残したりはしないでしょう。なので、基本的に時代が古いほど保存されているものが少なくなります。さらに日本の和紙は世界的に見ても保存性が高く、三国志の時代である2〜3世紀頃の中国と、戦国時代だった16世紀あたりの日本では、残っている史料の数が格段に違うわけです。

歴史学の目的は、「客観的に史料から事実を再発見・再構成すること」にあります。わたしたちが対峙するのは「古文書」や「古記録」と呼ばれるもので、できれば「一次史料」と評価される同時代人が日常生活・業務のなかで作成したものが望ましい。古文書は書状や命令書、帳簿など、当時の人が「伝達」「照合」を目的に書いたものを指します。いまなら、コンビニのレシートなんかも立派な史料になりえるでしょう。古記録は、主に日記です。

こういったものはすべて保存されてきたわけではないし、火災や水害、戦災で失われてしまったものも多い。また、いまなお掘り起こされずに眠っているものもあるでしょう。こういった史料に関して、誰がどのような意図で作成し、どんな特徴を有しているかを厳密に検討し、無数の記録の断片たちを丁寧につなぎ合わせながら史実を読み解いていく。そのために、古文書の活字化も進めています。

浅野長政家臣連署状(丸島所蔵文書)
豊臣秀吉の時代、甲斐国(山梨県)を治めていた浅野長政(後の五奉行)の家臣が、村落の有力百姓に与えた文書。田畑を荒らす鹿や猿を追い払うために、鉄砲1挺の所持を認めたもの。「刀狩り」令が出された後なのに、百姓が鉄砲所持を認められている点に注目

織田信長は本能寺から脱出していた!?

「歴史書を読み解く学問」というイメージがありましたが……実際は膨大なパズルを組み立てるような作業なんですね。

丸島 もちろん、鎌倉幕府の『吾妻鏡』や江戸幕府の『徳川実紀』といった正史や『平家物語』『太平記』などの軍記物も貴重な史料です。しかし、これらは編纂にあたって何らかの意図が介在しています。なので、歴史学では二次史料として一次史料とは分けて慎重に扱います。

もっとも一次史料だからといって鵜呑みにせず、必ず複数の史料を照らし合わせながら裏づけを取っていきます。例えば有名な「本能寺の変」が起こった直後、羽柴(豊臣)秀吉は「信長公はご無事だ」という書状を出しています。これは味方の動揺を鎮め、自分のところに軍勢を集めて謀反人の明智光秀を討つためにわざと流した嘘なんですが、もしもこの史料しか残っていなければ、教科書には「信長は本能寺から脱出した」と記されていたかもしれません(笑)。

そう考えると、間違って記録された事実もたくさんあるかもしれませんね。

丸島 公家や僧侶の日記を読んでいると、耳にした噂を書き記した後、「これは嘘なり」と追記している事例に遭遇したりしますね。大前提として、歴史上で起こった事実というのはひとつなんですよ。織田信長が本能寺で死んだのは事実としてありますが、何がいつ起きたのかを事実と確定させた上で、それをどういう風に評価するかというのが歴史学です。だから、実は最終的な答えはひとつじゃないんですね。

かつての歴史学では、戦国大名はものすごい専制君主で、武力によって全国統一を目指した存在という見解がなされていましたが、それを社会の側から見てみると、「混乱を収めるために人々から必要とされて生み出された存在」という解釈もできるわけです。事実、「応仁の乱」以降はあちこちで戦争が増え、他国から侵略されて略奪の被害に遭う危険性が高まっていたし、当時は気候が悪化していて、農業や漁業といった日常生活をめぐる隣村同士のトラブルも増えていた。そういうときに、他国の侵略から守ってくれて、かつ争いごとの裁判を任せられる存在が必要になった。だから戦国大名の特徴のひとつは、村落と直接やりとりをするようになった権力なんです。暴力による専制君主という見方だけでは説明しきれないし、領国の維持が基本的な目的で、拡張志向があったとしても、全国統一なんて考えてもいません。

これまでの解釈がすべて間違っていたとは思っていませんが、「光の当て方を変えるとものごとは違って見える」というのが、歴史学の醍醐味だと思っています。だから難しいのは、大好きな人物を研究するときなんです。どんなに立派でカッコいい存在であっても、それを覆すような発見がなされてしまったら、イメージを修正せざるを得ません……。好きな人物ほどフラットな目線で眺めねばならないのがつらいところです(笑)。