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INTERVIEW
08

ビジュアル系研究者
が仕掛けるオープン
イノベーション
「違うもの」を掛け合わせて起こす化学反応 研究者、プロデューサー・若新雄純 さん

全員がニートで取締役の「NEET(ニート)株式会社」、女子高生(JK)が市役所と組んでまちづくりに参加する「鯖江市役所JK課」、目的やスタイルを限定せず「とりあえず住んでみる」をテーマにした「ゆるい移住」……。思わず「何それ!?」と叫んでしまうユニークなプロジェクトを次々と生み出しているのが、若新雄純(わかしん・ゆうじゅん)さんだ。 高校は進学校の特進クラスに進むも、卒業時の偏差値は36。アルバイト生活を経て地方の公立大学に行き、在学中に先輩と起業。会社は後に上場したものの、自分でつくった会社に馴染めず、創業から2年で経営から離脱。 ビジュアル系の見た目と同様、異色の人生を歩んできたからこそ、若新さんはいま、「多様性」に着目して、様々なフィールドでオープンイノベーションの仕掛けをつくっている。 取材・文:川内イオ/写真:坂口真理子/編集:川村庸子

ビジュアル系男子の葛藤

斬新なプロジェクトの生みの親である若新さんですが、とにかく気になるのは研究者らしからぬその外見! いつから、現在のようなビジュアルなのですか?

若新 僕が生まれ育ったのは福井県の若狭で、いまでも実家から最寄りの自販機までは徒歩20分、信号機もコンビニもないような田舎です。そこでずっと地元の学校に通っていたのですが、中学2年生のときにビジュアル系ロックバンド・X JAPANに出会ったのがきっかけですね。
教員だった両親から、こうあって欲しい、こうあるべきだという価値観を押し付けられて、思春期の頃には煩わしく感じていたけれど、それに反発したかったわけではなくて、直感的に惹かれました。

パンクの精神は反逆、抵抗ですが、ビジュアル系は抗わない。逆らうのとはちょっと違って、基準から横にはみ出しているような価値観でしょう。それがすごくいいなと思ってはまったんです。中学2年生でギターとドラムを始めて、文化祭では長髪のかつらをかぶってドラムを叩きました。高校生のときにはもう、中性的なファッションのビジュアル系男子になっていましたね。
ちなみに、いまでもX JAPANが好きで、関連するものには惜しみなくお金をかけています。復活してから、ライブにもほとんど行っているし。

X JAPANの影響だったとは! どんな学生時代を過ごしたのですか?

若新 中学1年生までは、僕にとって勉強ができるということが大切なアイデンティティだったので、がんばって勉強をして、テストの半分くらいは1番を取っていました。
でも中学2年生になって思春期に入り、唐突にこれまでのようにテスト範囲を隅から隅まで暗記して満点を取るというモチベーションがなくなったんです。単純に勉強が嫌いになった。そのあとは、親にテレビを買ってもらう交渉をするときだけ1番を取る、というような感じでした。

それでも、勉強ができるキャラを保ちたいという想いもあって、高校は進学校の特進クラスに入りましたが、その頃から自分のアイデンティティに悩んでほとんど勉強することなく、卒業するときの偏差値は36。
大学に行きたいという気持ちはあったけど、超苦痛な受験勉強を耐える自信もなくて、都会の予備校などに通いたくなかった。まずは環境を変えようと思って、高校卒業後、まちでひとり暮らししていた祖母の家に居候することにしました。

そして、そのときにたまたま始めたアルバイトがあまりいいものじゃなかった。詐欺に近いようなテレアポと売り込みで成績の良い人たちが表彰されているのを見て、これはまずいなと。社内では実力主義だとか学歴は関係ないと言っているけど、「これは何かおかしい。やっぱり大学に行こう」と思い、なんとかセンター試験対策の勉強だけがんばって、宮城の県立大学に入りました。

縁もゆかりもない東北の大学に行ったのは、親や親戚、知人に大学のステータスでいろいろ言われるのは嫌だったから。そこは新設されてまだ時間が短く、地元の人はみんな「新しくできた国公立大学」としか判断しようがなかったんですよ。田舎独特でしょうけど、国公立大学ならとりあえずOKという価値観もあったので、それを逆手にとりました。


自身のホームページでも「自意識過剰」を公言している若新さん

大学生活のテーマは「素直」

大学生活は楽しめましたか?

若新 田舎の山奥で生まれ育った僕にとって宮城の仙台という都会は魅力的でしたが、入学してみると、高校から推薦でやって来たような真面目な人が多くて、みんなが自分を取り繕っている感じがしてすごく窮屈だったんですよ。
でも僕は、自分がオープンじゃなかったことで高校生活がつまらなくなったと反省していたので、大学では自分をさらけ出して、ありたいようにあろうと決めていた。学園祭では、ビジュアル系ソングに合わせて自分に酔いしれながら歌って踊る「ナルシスト狂宴」というイベントを開催したり、先輩と一緒に起業したりしました。

「ナルシスト狂宴」は最初の年はドン引きされましたけど、最終的にはみんなから声援を送られる大人気企画になりましたね。
起業したのは、当時からいわゆる王道のようなエリート人生がもうないことは覚悟していたからです。でも、「競争に負けた」と思われるのも、認めるのも嫌という腐ったプライドがあったので、それなら自分で新たなフィールドをつくって戦おうと思った。

事業は就職困難者向けの就職支援を行い、順調に成長して上場しました。ただ、僕は会社の決まりを守れなかったり、髪を染め直せなかったりして、共同創業者ながら2年ほどで追い出されました。自分がつくった会社でも文化やルールに馴染めず息苦しくなるなら、もう個人商店でやっていくしかない。そのためには学位や研究成果が必要だと思い、慶應義塾大学大学院に進学し、産業・組織心理学やモチベーション論を専攻しました。


学園祭での「ナルシスト狂宴」の様子

アウトサイダーだからこそ感じた「多様性」の大切さ

若新さんは2013年に全員がニートで取締役の「NEET(ニート)株式会社」を設立して話題になりましたが、学生時代から感じてきた「社会や組織に馴染めない」感覚が、現在の活動の原点になっているのですか?

若新 そうですね。常に「どうして自分はずれるのかな」と感じていました。だから自分と社会の関わり、社会のなかの自分というものが一貫したテーマ。使い古されているキーワードですが、「多様性」についても考えていました。
本来は、違うもの同士が共存する社会で、その違いを上手く組み合わせてどのように良い影響を与え合うかというのが、欧米で生まれた多様性の議論だったと思うんです。でも日本人は欧米ほどの多民族国家ではなく、宗教対立もないから、違いを生かし合うというより、違うものをいかにひとつにするかという方向性になってきた。

僕が思う多様性は、ひとつになることではなく、「違うまま一緒にやっていく」ということ。それはNEET株式会社に携わるなかで、いろいろと感じることがありましたね。

彼らは社会的に言えばニートと一括りにされますが、それぞれ複雑な感情や変なプライドを持っていて、よくケンカをするんですよ。その時に、ケンカはやめて仲良くしようと言っても、とてもひとつにはならないし、ひとつにしようとするから反発してケンカをするという見方もできるので、お互いが尊重し合えるのなら、バラバラのままで良いと思うんです。

多様性が生み出す想定外の化学反応

女子高生(JK)がまちづくりに参加する「鯖江市役所JK課」、目的やスタイルを限定せず「とりあえず住んでみる」をテーマにした「ゆるい移住」など、そのほかのプロジェクトも「多様性」というテーマは共通していますね。

若新 僕が期待しているのは、多様性のなかで、違う者同士がうまく掛け合わされたときに何が起こるのか。こういうのを「オープンイノベーション」と呼ぶらしく、実際に予想を超えるようなアイデアが生まれることもあるんです。

ニートのケースでは、メンバーが発案した「レンタルニート」という1時間1000円で自分を貸し出すサービスがあります。彼らはサービスとして継続できるようにあえて「クオリティの低さ」を重視しています。クオリティの高いサービスを提供してしまうと、お客さんの期待に応えられなかった時にがっかりされてしまうから(笑)。期待を裏切ったらサービスが成立しなくなるので、常に顧客の期待を超え続けるために、最初の期待を下げる。これは、社内の他のメンバーの取り組みや失敗などを見て、思いついたそうなんです。けっこうすごい発明だと思います。

女子高生たちは、まちのゴミ拾いという地味な活動を「ピカピカプラン」と名づけて楽しそうなイベントに仕立てることで、毎回100人以上の市民が参加するようになりました。さらにコスプレをしてゴミ拾いをしたハロウィンのときに、メンバーから「ゴミ袋がダサくて残念」という声が上がり、鯖江市が「かわいい」ゴミ袋をつくることになったんです。

ほかにも、鯖江にある自衛隊の駐屯基地から「若者と交流したい」と呼ばれたのですが、それに対して女子高生たちは「迷彩の制服が微妙なんで、私服で来てください」と言ったんです。確かに、いかつい迷彩柄の制服を普段から着ている人と仲良く交流したい若者は少ないでしょう。さすがだなと思いましたね(笑)。こうした提案は、大人が仕組んだプロジェクトのなかからは絶対に生まれないと思います。


2015年度のJK課のメンバー

確かにハッとするようなアイデアや言葉が生まれていますね。

若新 僕のなかでいま一番アツいのが、2015年に始めた「ゆるい移住」です。鯖江市が半年間無料で住居を提供して、「何をしても良いからとりあえず田舎暮らしをしてみませんか?」というプロジェクトで、参加してくれた15人が東大卒の元コンサルタント、元IT会社社長、元プロ野球選手など個性的で、ポテンシャルの高い人が多かったんです。
プロジェクトは2015年3月に終了しましたが、なんと、その後6人が福井に移住。いま、全国で移住者を求めていろいろなことをやっていますが、プロジェクトを始めて半年後に6人が移住するというのは、すごい実績みたいです。

移住者もその後どんな人生を歩んでいるのかというと、かなりバラバラ。ある30代の女性は、お年寄りしかやっていない室内ゲートボールのチームと出会って、半年の間に不可欠な存在になり、鯖江に残って、就職しました。その後、彼女を交えたそのチームは大会で優勝したそうです(笑)。

ほかには、同志社大学を卒業してから一度も就職していなかったニート状態だった男性は、山で木を切って炭をつくる林業を起業しています。もともと山に興味があったわけではありませんが、いろいろな人と出会って、その結果たまたまそこに行き着いた。ほかにも北海道から両親を呼んで一家で移住した人など、想定外のことがたくさんが起きています。

オープンイノベーションを起こす仕掛け

それはおもしろい! 若新さんのプロジェクトはどれもユニークですが、計画を立てる上で意識していることはありますか?

若新 どのプロジェクトでも、参加者がサービスを受ける側ではなくて「つくる側」になる仕組みを考えています。参加者が喜ぶものをどう提供するかではなく、「自分たちでつくった」という体験ができるようなプログラムにすれば、盛り上がるんじゃないかと思うんです。

NEET株式会社も、どんな会社になるのか、すべてみんなでつくっていくスタンスだったし、JK課も、大人がプログラムを提供するのではなくて、「JK課というのを始めてみようと思うんだけど、どうしようか?」みたいな。

もうひとつ大切にしているのは、常に社会の構造が変わっていくなかで、「いかにシステムや人間関係を一度ゆるめることができるか」という脱力的なアプローチです。いまの時代、「完璧な答え」を用意しようとしてもできないし、そもそも何が正解かすら曖昧。だからこそ、あらかじめカチッとした目標や答えを設定するのではなくて、間違ったら正せばいい、ダメだったら変えればいいというゆるい思考や手法で試行錯誤を重ねながら、新しい価値を探ればいいと思っています。

通常、企業も自治体も目標を設定し、逆算して計画を立てますが、「家族で移住してきてください」とか「林業をやりませんか?」と募集をしても、はじめからそんなことを具体的に望んでいる人は少ないでしょう。参加者15人中6人が移住したゆるい移住は、「半年間何をしてもいいですよ」「どうなるのかは半年後にしかわかりません」という、まさに試行錯誤できるゆるさのあるプロジェクトでした。

このオープンイノベーションを促す仕掛けは、ほかの分野にも応用できそうですね。

若新 いまは、これまでのプロジェクトのなかで生まれてきたオープンイノベーションの可能性を、企業組織のなかでどう活かせるのか考えています。例えば、企業がサービスの提供者で市民や消費者はお客さんという従来の単純な関係から、企業と市民を何かに一緒に取り組むパートナーとして巻き込み方を変えるなどです。

いま、自動車が売れなくなってきていますよね。長持ちするいい車が世に溢れすぎました。完成された自動車がお店に並んでいて、数百万円の価格がついていますが、お金を払って企業が用意したものを手に入れるという体験自体に魅力がなくなってきているんだと思います。
でも、自動車メーカーが「あなたのつくりたい車を500万円で一緒につくります」というサービスを提供したら流行る気がするんですよ。
500万円は高いけれど、メーカーの人と一緒に考えるプロセスを楽しむ経験には価値がある。メーカー側も、つくってみないとどんな車になるかわからないというおもしろさがあるじゃないですか。

「未来の価値」を先取りする

若新さんのプロジェクトは世間の「常識」や「当たり前」に一石を投じるようなものが多いと思いますが、そうなることをいつも意識されているんですか?

若新 カッコつけて言うなら、「未来に生まれそうな価値を先取りしたい」という想いがあります。それは、受験勉強が嫌だったことに端を発している。受験は若者にとって最もメジャーで分かりやすい選手権大会ですが、大勢の人が参加する大会に参戦すると「早慶明青立法中」のような階層がはっきりしてしまうし、競争相手が多いから1位になろうと思っても大変。だから、自分が得意な大会に出場するか、自分で大会をつくる。そこで未来の価値を目指せば、戦う人が少なくて注目されやすいし、それが本当の価値になったときには、それ相応の評価が得られます。

NEET株式会社も、適当に始めたわけではなくて、「働くということに対して従来の考え方では意欲のわかない若者たちと実験する」ということが未来に向けた価値だと思ってやっているわけです。ほかのプロジェクトも同じく、何が得られるのかまだわかりませんが、模索していくなかで何かそこに価値が見出せるようになったとき、ものすごく大きな何かが得られると思っています。