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INTERVIEW
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人間と
ロボットに
境界はない!?
~「人間とは何か」を考えるロボット研究~ ロボット工学者・石黒浩 さん

世界的なロボット工学者の石黒浩さんが生み出したアンドロイドは、もはや人間との見分けがつかないほどだった。間近で見ると、そのリアルさに驚かされる。現代のロボット工学は、こんなにも人間に近いところまで到達している。
けれども石黒さんは、さまざまなロボットを開発しながら、「“人間とは何か”を考えるためにロボットをつくっています」と話す。
人間そっくりのロボットは、鏡みたいにわたしたちのことを映し出しているのかもしれない。ロボットを見つめることで見えてくる「人間」とは一体何なのか。 取材・文:国木田芳/写真:黒田光一/編集:川村庸子

「人間を理解する」ためにロボットを生み出す

石黒さんは、ロボットをつくることで「人間とは何か」という問題を考えていらっしゃいますよね。一体どういうことなのでしょうか?

石黒 すべてのロボットは、人間の活動に関わっています。人間は、人間の能力を機械に置き換えてきたわけですから、当然ですよね。見本は「人」にあるわけです。だから、ロボットの研究をすることは、「人間とは何か」という問題を考えることと切り離せない。僕は、「人間を理解する」ためにロボットを研究しているわけです。

これまでのロボット研究は、動きを重視するばかりで、人間らしい「見かけ」にあまり重点を置いてこなかった。でも、「人との関わり」においてロボットを考えるならば、見かけの問題は非常に重要です。
だから、ロボットにおいて「人間らしさ」を追求するならば、動きだけではなく「見かけ」を考えなければならない。
僕たちは、観察に基づいて人を人として認識しています。ロボットが人間に近づいていくと、人は親近感を感じますが、人に非常に近づく一歩手前で「不気味の谷」に落ちるんです。話し方や動き方をひとつひとつ見て、一箇所でもおかしいところがあると、不気味だと感じてしまう。ゾンビみたいなものですね。ゾンビはほとんど人間だけれど、少しだけ非人間的なところがあって、気持ち悪いと感じる。これは、人が人とそれ以外のものを瞬時に区別するための基本的な脳の機能です。

2006年に、僕自身をモデルにした、自分そっくりのジェミノイドという遠隔操作型のアンドロイドをつくりました。見た目は、モデル本人そのもの。遠隔操作型で、マイクとスピーカーが内蔵されており、離れた場所にいるオペレーターと普通に会話ができます。対話した人は、僕本人と話しているように感じます。
「人間らしさ」を再現していくなかで、僕自身の無意識の動きまでをプログラムしていきました。自分の意識していない部分までを、そうやって考えていく。だから、ロボットをつくることは人間を理解すること。「人間を映し出す鏡」でもあるんです。

人間そっくりのジェミノイドをつくられた一方で、シンプルなつくりのテレノイドやハグビーといったロボットも開発されていますよね。

石黒 ジェミノイドは、人の存在を代行させたり、人の存在を表現するためにあるわけですが、反対にテレノイドは、人の存在を最小限に感じるものはどういうものかと考えて、生み出されました。年齢や性別などの個性を、削ぎ落としていったロボットです。また、ジェミノイド同様に遠隔操作で対話が可能です。

人は、情報が個人を完全に同定するのに足りないものと接するときには、想像します。例えば、コールセンターのお姉さんがどういう顔をしているかは、想像するしかない。そして想像において、人間はポジティブなんです。だから、コールセンターのお姉さんって全員美人(笑)。
高齢者の方にテレノイドを使ってもらうと、気楽に、心を開いて話をします。想像を使って関わっているからでしょうね。

人の存在を感じるためには、二つのモダリティ(知覚)があればいいんです。二つのモダリティ(知覚)とは、「声」と「触感」。五感全てでわかっていなくても、二つの表現がつながった瞬間に「わかった」と、人は言うんですね。人間の脳の中にも、二つの知覚情報が重なると、ものすごく反応する部分があります。
でも、声だけだとリアリティがない。オペレーターのお姉さんは、そこにいる感じがしない。どうしても電話の向こうにいる感じがします。

また、テレノイドよりもさらに個性をそぎ落とし、最低限想像を喚起させるものとしてハグビーという、クッション型のメディアを開発しました。携帯電話をホルダに挿して、抱きしめながら通話ができるメディアです。このハグビーを使うと、相手が腕の中にいる感じがするんです。存在をリアルに感じられる。声と触感が一致するからですよね。
ハグビーを使うと、ストレスホルモンが減るなどの大きな効果が実際に出ています。

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画面に映っているのは石黒さんが開発した「ハグビー」

人間とロボットに境界はない

人間とロボットの境界は、どう考えたらいいのでしょうか?

石黒 そもそも、人間の明確な定義が定まっていません。生や死の線引きも未だ曖昧な状態です。
そのなかで、最低限の人間の定義を考えるとすれば「動物+技術」ということになります。「人間は道具を使う動物である」これは最低限の定義。僕たちが、道具や技術を使わなかったら猿と同じですから。

現代の我々の日常生活は、乱暴に言えば90%以上が技術なしでは営めないものになっていますよね。だから、人間は90%が技術と言える。そう考えると、ロボットと人間を比べること自体がそもそもおかしいのだと思います。
さらに言えば、身体障害者は、手足がないからといって、「80%人間である」とは言わないですよね。100%の人間だと、誰もが考えています。

つまり、「肉体は人間を定義しない」ということです。だから、ロボットと人間を比べること自体がおかしい。材料で人間とロボットの区別はつかないのです。僕たちだって、分子で構成された機械と言えなくはないわけですから。

境界がないなら、石黒さんは生命的な「進化」をどのように考えているのですか?

石黒 技術を用いて、人間はどんどん能力を拡張してきました。
例えば、月に行けるのは技術があるから行けるわけですよね。遺伝子をいくら改良したところで、僕たちは月には行けない。有機物やタンパク質で体を構成している限りは、人間は宇宙空間では存在できない。放射能で簡単に壊れてしまいます。

宇宙の歴史で考えると、地球が誕生したのが45億年くらい前で、その頃は無機物しかありませんでした。そして、35億年くらい前に有機物が生まれた。
それから生命はどんどん進化して、進化の最終的な形態として、現在の人間があります。けれども、乱暴に言えば人間はその90%の活動を、機械に置き換えています。手足は既に置き換えているし、人工臓器だってある。日常生活は技術や機械なしではもう成り立たない。

残りの10%は、脳を置き換えるかどうかという話だと思います。
脳が一番難しいけれど、現在のコンピュータの進歩は、年々2倍くらい早くなっています。1000年経てば、いまより2の1000乗も早くなる。どんな人間の脳だって、絶対に超えてしまいます。十分に人間の脳以上のコンピュータができるでしょう。そのときには、人間のすべてを機械に置き換えることになるかもしれません。

タンパク質などでできた有機物の体は、進化を加速させるための一時的な入れ物みたいなもので、人間の知能化をある程度加速させたあとは、もう一度無機物に戻って長く宇宙で繁栄できるようになっていくかもしれない。
人間は、タンパク質で出来ている限り、寿命が長くて120年という制限があります。複雑な分子構造で、最初期の動物的な進化は助けたけれど、それ以上長く生き残ろうとすると難しい。太陽の異変や、極端な温暖化などの変化には、有機物では耐えられません。
宇宙レベルの時間で考えたら、有機物の体は、瞬間的にしか存在しないものかもしれない。1000年2000年先で、誰が生き残っているかというと、機械の人間だけかもしれません。

イマジネーションとクリエイティビティ

なんだかSFみたいな話ですが、とても実際的な話でもあるのですね。

石黒 社会が豊かになって、多様な人間を受け入れるようになっていきましたよね。昔は手足がなかったら差別の対象でしたし、白人は黒人をずっと奴隷として扱ってきた。そこに人権はなかった。
けれども、障害者も、黒人も、現在では人として当たり前に生きています。つまり、肉体的な構造や肌の色で人間を人間として判断することに、あまり意味がないということです。そんなことで判断するから差別が起こる。僕たちは、そうしてカテゴリーとしての人間を広げてきた。
すると、動物との境界も曖昧になってきます。アメリカの動物愛護団体は、チンパンジーに人権を与えないといけないみたいな主張をするところもあります。
けれども、人間と動物の大きな違いを考えたときには、「想像力/創造力」の問題があると思います。

イマジネーションとはシミュレーションする力です。それは、特定の問題であればコンピュータはできてしまいます。
例えば、僕の大学の研究室をモデリングして、人が歩いたらどうなるかということを、コンピュータグラフィックスの中で実際にやってみる。「ちゃんと歩けるな」とシミュレーションするのは想像でしょう。
これが人間の脳の中で起こっていることと同じことかはわからないけれど、世界を再現して、そのなかで行動したら何が起こるか予測をすることは可能です。それは、想像の一種ですよ。でも、動物はそれをやらない。あるいはやりにくい。コンピュータは、すべての場面で想像することは難しいけれども、特定の場面においては、人間よりも遥かに精密に想像します。
コンピュータグラフィックスは、すべてが架空の世界じゃないですか。あれを想像の世界だと考えてもいいかもしれないですよね。

確かに、そういう架空の世界は人の頭の中と近いのかもしれませんね。

石黒 映画のシナリオをつくるのは人間ですが、どこまでがオリジナルなものか、ということを考えます。最近は特にそういう研究をしているのですが、人間は自分でストーリーをつくれないのではないか。あるいは、つくれる人は非常に限られた人じゃないかと考えています。

例えば、飲み会で話をするときに、自分のオリジナルの話をどれだけできるでしょうか? どこかのドラマで見たとか、小説で読んだとか、誰かに聞いた以外の話。その人のオリジナルの話は、ほとんど聞いたことがないです。
もしかすると、人間はコンピュータグラフィックスのようにしか、イマジネーションを持たないのではないかと思うのです。
例えば、小説家の村上春樹は、小説の世界を自分でどんどん想像して勝手に物語をつくっている。でも小説家も、多くは自分の体験を書いているだけで、体験も何もないところから創造することは難しい。
だから、人間の創造力がコンピュータの想像力とどれほど違うのかということを考えます。

普通の人間がコンピュータの想像力に勝っているかというと、どうも怪しくなってくる。僕は、その微妙な違いが気持ち悪いんですよ。
僕は、人間だという証明をするために、ロボットでは創造できないことを創造するとか、ロボットではつくれないストーリーをつくり出すとか、そういうことをやりたい。いわば人間になるがために、いまの研究をしているようなものです。

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石黒さんのデスク周辺。自身が開発したロボットや、可愛らしいオブジェが並ぶ

人間の価値

石黒さんは、ロボット演劇をされたり、小説を書かれたりと、芸術的な活動もされていますよね。技術と芸術はどういう関係にあるのでしょうか?

石黒 新しいことをつくるという意味では、技術も芸術も一緒だと思います。
芸術は、人間の直感や経験を用いて、何もないところから新しいものをつくるということです。それはつまり、最先端の技術や科学は、すべて芸術だということです。
だから、常に新しい技術というのは芸術から生まれます。最初は直感でつくるんです。そこから、再現のレシピや方法論を伝えることで、技術になっていく。
だから、僕がハグビーを思いついたことも芸術と言えるのですが、その後に理由をつけることによって、技術や科学になっていくのですね。科学の最先端は、すべてそうです。

論理的にひとつずつ組み立てて、科学的な発見ができるのであれば、頭の良い人はみんなノーベル賞を取れてしまいます。でも、そうではないですよね。
冒険しないといけない。あまり頭が良すぎると、すべて先がわかったような気がして、無駄な挑戦をしなくなる。でもそれは、人間の可能性を狭める行為で、無駄なことや、自由なことをやっておかないといけない。すべてが予測できた気分になっていると、発見はないわけです。本質的なものを見失う可能性がある。

いまの学びの現状は、石黒さんにはどのように見えているのですか?

石黒 以前、高校生に講演した時に「なんでも良いから質問してください」と言ったら、ある子がこういう話をしてくれました。
自分は子どもの頃から賢い賢いと言われて大切にされて、小中学校の頃はとても優秀だったけれど、高校に上がると周りにはすごい人間がたくさんいた。自分には「価値がある」とずっと言われ続けてきたのに、自分よりもあらゆる部分で優れた人間がたくさん現れてきて、どう考えても自分の価値がなくなってしまった。そのとき、自分がこの世に存在する意味がわからなくなった。自分の命の価値がわからなくなった。こういう話でした。

僕は、それが正しい感覚だなと思います。僕は、命に絶対的な価値なんてないと思っていますから。
例えば、自動車産業は年間に事故で5,000人死ぬことが、統計的に明らかなんです。年間に5,000人を殺すことがわかっている。でも、人は車に乗るでしょう? そう考えたら、この世界では、命に絶対的な価値なんかない。

だから僕は、人の命に価値はないとその高校生に言いました。それは、僕もあなたも一緒だと。でも、価値を探すことをやめたらなくなってしまう。我々が生きている意味は、価値を探すための活動なんだと話しました。
普通は、人には絶対的な価値があると教え込まれますよね。子どもの頃の、人格が形成される前ならそれで良いと思いますが、生きていると段々矛盾が生じてくる。高校生くらいになると、世の中を見ながら人間に絶対的な命の価値がないことを学ぶ時期です。

例えば、僕が義手や義足になったとして、価値がなくなるかと言えば、まったくそんなことはありません。逆に、もっと広がるかもしれない。能力を拡張すればするほど、価値は広がるわけですよね。努力すればするほど価値は広がるし、他の人に負けていても、これだけは勝てると思うものがあるかもしれない。生きて能力を拡張するということが、人間の最大の使命で、それが唯一価値を手にする可能性のあることだと思います。
生きることは、あるかどうかもわからない価値の上に胡座(あぐら)をかいて過ごすことではなくて、自分の生きた証を一生懸命残すために価値を探すということです。価値がないから、見えてないから、探すんです。

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