再生医療研究者 編

朝日新聞出版『2020 年大学ランキング』に掲載された最年少教授の項目では、東京医科歯科大学と横浜市立大学がいずれも31歳でトップとなった。どちらも武部貴則氏のことで、両大学ともに史上最年少での教授就任である。しかも武部氏は、再生医療関連の他の要職にも就き、3 週間ごとに日本とアメリカを行き来しながら研究を指揮している。医学を再定義したいと語る若き研究リーダーに、激務をものともしない思いを伺った。

「一人でも多くの命を救いたい」、
だから同時に4つの研究に、僕は全力で取り組む

東京医科歯科大学 先端医歯工学創成研究部門 教授/創生医学コンソーシアム 臓器発生・創生ユニット長横浜市立大学 特別教授/コミュニケーションデザインセンター センター長
米・シンシナティ小児病院オルガノイドセンター 副センター長/消化器部門・発生生物学部門 准教授/Takeda-CiRA Joint Program for iPS Cell Applications(T-CiRA) 研究責任者

武部 貴則 (たけべ たかのり)

2005年 桐蔭学園高校理数科 卒業
2009年 米スクリプス研究所(化学科) 研究員
2010年 米コロンビア大学(移植外科) 研修生
2011年 横浜市立大学医学部医学科 卒業
    横浜市立大学 助手(臓器再生医学)
2012年 横浜市立大学先端医科学研究センター
    研究開発プロジェクトリーダー
2013年 横浜市立大学 准教授(臓器再生医学)
    国立研究開発法人科学技術振興機構
    研究領域「細胞機能の構成的な理解と制御」
    さきがけ研究者(兼務)
2015年 スタンフォード大学幹細胞生物学研究所客員 准教授
    米シンシナティ小児病院 准教授(小児科)(兼務)
2016年 T akeda-CiRA Joint Program for iPS Cell
    Applications(T-CiRA) 研究責任者
2017年 シンシナティ小児病院オルガノイドセンター
    副 センター長
2018年 横浜市立大学先端医科学研究センター 教授
    東京医科歯科大学統合研究機構 教授
2019年 横浜市立大学 特別教授

2つの領域で4つの研究チームを率いる

「いま進めている研究は4つ、そのうち3つがi P S 細胞を使った研究で、もう1つは医学を再定義するプロジェクトです」と武部教授は語り始めた。

武部の専門領域は2つ、再生医療と広告医学だ。iPS細胞を使う再生医療に関わる研究を進めている場が、米・シンシナティ小児病院と東京医科歯科大学、そして武田薬品と京都大学iPS細胞研究所が共同で運営するT-CiRAである。いずれも同じiPS細胞を使うとはいえ、それぞれ研究のステージが異なる。

「シンシナティ小児病院では最も基礎的なテクノロジー開発に取り組み、東京医科歯科大学ではその基礎テクノロジーを活用する探索的研究を進めています。T-CiRAでの研究は、完全に実用化を見すえたものです。3つの研究体制を整えた結果、基礎から実際の応用までを一貫して研究できるようになりました」

一方、横浜市立大学では、コミュニケーションデザインセンターのトップとして、新しい医療「広告医学」を創るプロジェクトを進めている。日本とアメリカを股にかける八面六臂の活躍ぶりで武部は、若干31歳にして2つの大学の教授に就任した。2018年にノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏でも教授就任は37歳のときだった。先駆者たちと武部は一体どこが違うのか。

「正直なところ自分ではわからないと答えるしかありません。たまたまというか、もしかするとセレンディピティとは、こういうことなのかと受け止めています。ただ再生医療に関しては、基礎から応用までを一人ですべて見るのが、一つの理想だと考えています」

父のような人を一人でも多く救いたい

そもそも武部が医師を目指すようになったキッカケは、小学校3年生のある日、突然父が帰ってこなくなった事件にある。母と兄の3人でいつもどおり夕食をとっていると電話が鳴った。話している母親の横顔を見ているだけで、顔色の変化がはっきりわかったという。

「お父さんが風邪をこじらせたようなので、ちょっと見に行ってくるね。そう言い残して出かけた母親は、それっきり数カ月も家に戻ってきませんでした」

翌日から祖母が来て兄弟の世話をしてくれた。一体何が起こっているのか、子どもたちにはまったくわからないまま月日が過ぎた。ようやく父に会えるからと訪れた病院の病室には、面会謝絶の札が下がっていた。そこで再会した母は泣きながら、父が危篤状態にあり、助かったとしても後遺症が残ると兄弟に告げた。そのときの光景は、今でもくっきりと目に焼きついているという。

「幸い父はその後元気になり、仕事にも復帰できました。そのころ祖母が毎日のように、お父さんを助けてくれたのはお医者さんだよ、勉強して医学部に入れば、たくさんの人を助けることができるんだよと話していました。小学生の時に聞いた言葉がいつの間にか刷り込まれていたようです」

高校3年生までクラブ活動で吹奏楽に打ち込んだ後、勉強に集中して横浜市立大学の医学部に入学、入学後はひたすら医学に取り組んだ。医学部入学時には、父を救ってくれた記憶もあり医師は万能というイメージがあった。ところが、そのイメージが徐々に崩れていく。

「医学を学ぶほどに、世の中には医療では治せない病気がいくつもあることを知りました。そんな中で難病に対する治療法の一つとして臓器移植があり、それなら僕も移植をやりたいと考えたのです。ところが移植を学ぶために留学したアメリカで、さらに厳しい現実を突きつけられました」

ドナーの数が日本よりはるかに多いとはいえ、アメリカでもすべての患者に移植用の臓器が割り当てられるわけではない。移植を必要としながらも、臓器を待っている間に毎年多くの患者が亡くなっていた。臓器移植に頼らない方法はないのか。ちょうどその頃、山中伸弥教授によって発明されたiPS細胞の存在を武部も知った。仮にiPS細胞を使って臓器をつくることができれば、臓器移植に頼らなくても人の命を救える。それなら一刻も早く研究に取り組みたい。そう考えた武部は、医学部卒業に際して常識はずれの決断を下した。

僕は臨床研修を辞退します

医学部で6年間学び、国家試験に合格すると2年間の臨床研修に従事する。この研修を経て初めて、保険が適用される医療行為を行える。国家試験に合格しただけでは、医師として仮免許を与えられたに過ぎない。だから基礎研究に進む場合でも、とりあえず臨床研修だけは済ませた後に研究室に戻って研究に取り組む。医学部卒業生なら誰もが当たり前のように進むこの道を、武部は拒否した。

「まわりの全員から、一体何を考えているんだって反対されました。けれども遠回りしている時間がもったいないと思ったのです。そんな中で一人だけ、僕がとても尊敬している先生が、そっと後押ししてくれました。研究に向いているかどうかは3年ぐらいやってみればわかる。それでダメだったら、戻ってきてもう一度研修医からやり直したらいいんじゃないかと。すっと肩の荷がおりました」

決断してからの武部は、猛烈なスピードで動き始めた。iPS細胞を使う研究アイデアは、すでに頭の中にある。ただし、研究は一人では進めることができない。誰かに手伝ってもらうなら、そのスタッフは自分で雇わなければならず、研究を進めるための資金も必要だ。「やり始めたら没頭するタイプ」という武部は、1年目は自分だけで実験を繰り返しながら、科学研究費を獲得するための申請書を書きまくった。

学部を卒業してすぐの研究員が、自分で研究費獲得に動くのも異例である。通常なら研究員は、所属する研究室のボスである教授が獲得してきた資金を使って研究する。けれども武部は自分なりのやり方を貫いた。その結果2年目がスタートする時点で1500万円の研究費を確保し、スタッフを一人雇っている。そこから研究に弾みがついた。

そして世界で初めて、iPS細胞から血管構造を持つヒト肝臓原基(肝臓の芽)をつくり出すことに成功する。ところが画期的な成果は、想像を絶する苦労の幕開けとなった。

「自信を持ってまとめた論文を科学誌『Nature』に投稿してからが、本当に大変でした。世界で初めてということは、先行研究がないことを意味します。これまで誰もやったことのない研究に対しては、査読する側も徹底的に懐疑的な態度で臨んでくるのです。要は、そんなすごい研究を、そう簡単にできるはずないだろうと疑ってかかる。その結果、査読を通すには膨大な数の実験を行って実証せよと連絡が入りました。指示された実験リストを見たときは、ほとんど絶望的な気分になり落ち込みました」

ところが、そこから研究室の教授が、全力でサポートに回ってくれた。研究室の予算から必要な資金をやり繰りしてくれるだけでなく、実験を進めるために必要なスタッフもつけてくれた。当初は雇ったスタッフと武部との2人体制だったが、最終的には10人規模のチームが組まれた。

指示された実験を1年半かけてすべてやり遂げた結果、論文は『Nature』誌に掲載され、「Takebe」の名前が一気に世界に広がった。再生医療に新たな1ページを加えた武部は、26歳にして横浜市立大学の准教授に就任する。

「このとき学んだのが、当たり前のことですが研究は一人では絶対に進められないということ。教授の強力な支援があったからこそ、論文をまとめることができたのです。教授はもとより、研究室におられた先輩方に、どれだけ助けていただいたことか。全員僕より年上の皆さんが、志を一つにしてくださったおかげで、研究は成就しました」

より多くの人を救うため医療を再定義する

再生医療に取り組む前、医学部2年生の頃から武部はもう一つ、新たな試みに挑戦していた。それが広告医学である。広告医学を端的に表現するなら「人を動かす広告の手法を活用し、不健康な人たちが病気になる前に介入して病気を予防する」新しい医学である。これを武部は「医療の再定義」と表現する。

「これもキッカケはやはり父です。父は健康診断で高血圧と注意されていながら、病院にあまり行かず薬もきちんとは飲んでいませんでした。父と同じようにいわゆる生活習慣病を抱えながら、仕事に一生懸命なため生活習慣を改められない人が世の中にはたくさんいる。そんな人たちに対して、医療は何ができるのか。残念ながら、僕が学んだ教科書に答えはありませんでした」

幸いにして、武部の父は死の淵から生還できた。けれども、残念ながら救われずに亡くなっていく人も多い。その人たちのために、何か自分にできることはないのか。自分なりの問題意識を抱いた武部がたどり着いた答え、それが多くの人を動かす力を持つ広告だった。広告やマーケティングの世界で培われてきた考え方や手法を医療に応用すれば、きっと多くの人を救う力になる。そう考えた武部が創り出した言葉が「広告医学」である。

「従来の医療の定義は、発病した人を治療することでした。この定義が2000年以上もの間、まったく変わらなかったのです。これに対して、未だ発病していない人に対して治療を施すことも今後の医療に含めるなら、これは医療の再定義と呼ぶしかない。大それたテーマですが、再生医療と並ぶ僕の人生の究極の目標となっています」

武部の考え方に賛同した横浜市立大学は、先端医学研究センターにコミュニケーションデザインセンターを新設し、武部をそのセンター長に任命した。医療を再定義する武部は、研究者としての働き方も従来の概念には収まりきらない。

「今しか」,「自分にしか」できないことを自問し続ける

31歳で2つの大学で同時に教授を務めること自体が規格外である。さらに民間企業との共同研究でもリーダーとしてチームを率い、アメリカでも研究チームのトップを務める。3週間ごとに日本とアメリカを行き来しながら、複数の拠点で研究に取り組む。

「従来ならどこか一つの大学に所属すると、そこに腰を落ち着けて研究を進めることになったのでしょうが、僕は大学中心ではなく研究中心でとにかく前に進みたい。再生医療に関して、本当の基礎から実際の応用までをすべてカバーしようと思えば一つの拠点では難しい。さらに治すための再生医療だけでなく、広告医学によって治す必要をなくす医療にも取り組みたい。若いからこそできる負荷のかかる取り組みだとは自覚しています。それでも何とかこなせているのは、自分の役割をアイデア出しとディレクションの2つに特化しているからでしょう。研究を進めるカギとなるアイデアを次々と出し続けるためにも、異なる仕事を同時並行で進めるのが、僕にとってはベストなのです」

アイデアは普段とは異なるインプットがあるときに閃くという。例えば、学会で異なる分野の研究者の話を聞いているときや、広告など全く異なる業界の人と議論しているときなどだ。普段から問題意識を持ち、解決すべき課題が頭にあるから何か刺激を受けたときに、アイデアが浮かび上がる。

ディレクションに関しても、武部には独特の才覚がある。今でもまだ32歳、まわりにいるのはほとんどが自分より年上のスタッフだ。そのような人たちにうまく動いてもらうには、どうすればよいのか。

「人の動かし方については、高校時代の部活動で学びました。部長だからといって年下の部員に対して頭ごなしに命令をしたのでは、誰も快く動いてくれません。そうではなく、人の良いところや得意分野を見つけて、そこを軸として動いてもらう。すると、みんな気分よく動いてくれる」

今抱えている4つのテーマの他にも、武部の頭の中にはいくつもの新しいアイデアが浮かんでいる。それらのアイデアも実現可能なプランに落とさなければ意味はない。学部卒業以来、だいたい2~3年スパンで成果を出し、新たな取り組みにチャレンジし続けてきた。

「3年かけて成果が出ないテーマは、実現可能性が低いと判断します。スパッと見極めをつけたら、また次のテーマに向かいたい」

人を救うために「今しか」「自分にしか」できないことはなんだろうか。武部は常に自分に問い続けている。

Q&A

仕事に欠かせない三種の神器を教えてください。

パスポート、スマートフォン、ノートパソコンですね。パスポートは、アメリカ以外にも海外を飛び回っているので必需品。スマホは僕の情報源で、ニュースはもちろん論文もたいていスマホで読みます。パソコンを使うのは論文を書いたり、プレゼンの資料をつくったりするときです。

一日のスケジュールを教えてください。

朝6時前に起きるというか、最低6時間の睡眠時間を確保したいという以外に、決まったスケジュールはありません。大学に来る日があれば、企業との打ち合わせに行くこともあります。食事はすべて外食、ただアメリカとの時差調整のために、昼食は抜くことが多いです。