油座 瑞希さん 愛知県 私立 南山高校 (高1)
東進衛星予備校 杁中校
題名:無力な自分からの脱却
私は小学二年生の頃に小児科の研究医を志した。そしてその志は、今も変わっていない。きっかけは、妹が再発がんと闘う姿を見たことだ。
三歳年下の妹は、ウィルムス腫瘍を抱えて生まれてきた。ウィルムス腫瘍とは小児の腎臓がんの一種で、転移がなければ九割方完治するとされている。そのときは、腫瘍がある側の腎臓を摘出することで、がんの大部分を取り除くことができた。
しかし私が小学一年生のとき、妹のウィルムス腫瘍が再発し、さらに肝臓に転移したことが発覚した。一般に、再発がんの生存率は、初発がんのものから一気に低くなる。再発がんは一度目の治療で生き残った強いがん細胞が増殖したものなので、同じ治療法が効果を発揮しにくく、二回目の治療が困難なためだ。そして、ウィルムス腫瘍が再発した場合の三年生存率は、「約一割」である。私の妹は難病患者として、名古屋大学医学部附属病院の小児病棟に長期入院することになった。
その間は、いつも妹のことばかり考えていた。妹の病状については、私にはほとんど知らされなかった。親という生き物は、小学生に難しい話をしても理解できないと思っているから、何を聞いても「とにかく妹は頑張っているのよ」と曖昧なことを言われた。病状を詳しく知りたかったのと、単に会いたい気持ちがあって、私はたびたび面会を希望したが、小児病棟では感染症を防ぐため外部の子どもの入室が厳しく規制されていたことと、妹の体調が優れないことを理由に、面会は叶わなかった。
ある日、「妹の体調が少し回復したから、妹とビデオ通話を繋ぐことならできるよ」と親から告げられた。私は、浮かれながら親の携帯電話を受け取った。
しかし画面に映った妹の姿は、私が知っている「妹(時に憎たらしい)」とはあまりにもかけ離れていた。げっそり痩せていたし、頬はこけていたし、髪の毛は抗がん剤の副作用ですべて抜けていた。想像していた何倍もひどかったし、そもそも想像が甘かった。妹がそこまで厳しい闘病生活を送っていることを、通話が繋がるまで一切知らなかった。
じゃあそれを知った私に何ができるだろう。考えたけれど、結論、何もしてあげられることはなかった。会うことすらできない。そもそもまったく医学知識がない。知ったところで、あまりにも無力じゃないか!
最終的に、医療従事者の方々の手厚いサポートを受け、妹の再発がんは奇跡的なことに根治し、再発から八年経った今も元気に過ごしている。
私が目指す「研究医」は、大雑把に言うと、新たな治療法の開発や病気の原因を突き止める研究を行う職業だ。無力な自分を終わらせ、妹と同じ境遇の人々や、その家族をなるべく多く救うためには、臨床医ではなく研究医として、根本的な治療法を研究する道の方が合っていると考えたからだ。
特に私は、小児科の研究医として、小児がん向けの新たな治療薬を確立したいと思っている。小児がんと成人がんは、「がん」と一括りで扱うにしては異なる箇所が多い。小児がんは成人がんと比較すると、早期発見が難しく、がんの増殖も速い。しかし、化学療法や放射線治療の感受性が極めて高いという特徴がある。そのため、イメージとしては、小児がんは「大きいが弱い」、成人がんは「小さいが強い」という違いがある。小児がんと成人がんでは、がんそのものの特徴も薬の効き方もまったく異なる。つまり、小児がんは小児がんとして、成人がんとは異なる前提での治療が求められるはずだ。しかし現状小児がんの治療薬として使われているのは、成人がん向けに作られた治療薬の、量だけを減らしたものだ。私は、成人がん向けに作られた治療法を流用するのではなく、小児がんに特化した治療法を追究したい。もしも小児がん向けの治療法・治療薬を確立することができれば、多くの小児がん患者の命を救うことに繋がるはずだ。
また、小児がんの治療法を研究すること自体が、波及して、「小児向けの治療」がより注目を集めるきっかけにもなり得る。小児疾患は患者数が少ないため医療研究において後回しにされがちで、目を向けられることはあまりない。しかし先述したように、子どもと大人とでは薬の効き方などが違うこともあり、子どもには子どもに合った治療を施すことが必要だ。つまり、小児がんに特化した治療法を確立することは、小児がん患者の命を救うことだけでなく、「子どもに合った医療」の重要性への理解を深めることにも繋がるだろう。結果として、がん以外の小児疾患にも目が向けられるようになれば、さらに多くの小児患者を救えるかもしれない。それは、病気と闘っている小児患者自身や、その家族にとって、とても大きな希望になると思う。
自分の行きたい方向に行くために、そして志を叶えるために、どのような進路を辿る必要があるのかというのは、今までにも何度も考える機会があった。小学四年生のときにアメリカの有名大学を回る研修に参加させていただく機会があり、そのとき「世界トップの大学」に圧倒された。あらゆる設備が充実していて、最先端の研究が行われているその環境に、強い憧れを抱いた。世界を目指したい、世界トップの場所で研究したいと強く思った。
では私の目指す分野の「トップ」はどこなのだろうと考えてみたところ、まず思い浮かんだのは、日本の研究医として世界に名を馳せる山中伸弥教授がiPS細胞を発見した「京都大学」だった。あるいは、日本の大学から海外の研究所へ行く道もある。米国国立がん研究所は世界のがん研究をリードしていると聞く。私は今、迷いながらも、なるべく有用な情報を集めて、「定めた目標地までどう進むか」という戦術を明確に固めようとしているところだ。
しかし、現状自分の進みたいと思っている道に進むためには、どれを選ぶにしても高い水準の学力が必要だ。大学選択が、将来進むことができる道の選択肢を決めることは間違いない。
だから私は、志を抱いた小学二年生の頃から、まずは学力をつけることを始めた。夢だけを持って初めて受けた全国模試では、総合成績が平均に達していなかった。その結果を受けて、「私よりも世界を引っ張る適任がいるから、その人たちが動いた方がいい」などと考えることは、決してなかった。「私の志」として叶えたいと思った。そこから努力を重ね、初模試から四ヶ月後に受けた模試で、全国十八位を獲ることができた。「努力は実る」を早いうちに実感することができたのは、私の人生にとってとても重要なことだったと、今までを振り返って思う。
小学二年生の頃から「十年しかない」と思っていた猶予はあっという間に「三年弱」になった。まずはなるべく多くの選択肢から選べるよう、高みを目指したいと思っている。そのために私は今学んでいて、学ぶことは私にとっての使命である。
最後に、「学ぶ」ことそのものの意味について考えたことを書きたいと思う。私は、人々が学ぶべき理由について、「視野の広さや多角的な視点を手に入れるため」と考えている。物理基礎の授業で電磁誘導を学んだ日に駅の改札を通ったとき、日常的に電磁誘導にお世話になっていることを実感した。メイクに興味を抱くまでの私は、街ゆく女性がどう涙袋を描いているかを気にしたことなどなかったが、自分がメイクと向き合ってからは変わった。弥生時代の日本人にスマホを与えても重石にしかならないが、私たちは有効活用することができるだろう。このように、「学ぶ」ということは、見える世界を広くすることなのだ。「これを学んだところで将来的に役立たない」などと考えるのは、視野を狭くすることと同じだ。そして広い視野というのは、将来どの分野で活躍していくとしても、必ず活きるものだ。
実際、「妹のような子どもを救いたい」という思いは、年月が経っても色褪せたり目移りしたりすることはなく、むしろ「学び」を重ねるごとに深まってきた。特に、医学について学ぶほど、抽象的な方針に具体的な手段や課題が加わっていき、志の輪郭がくっきり浮かんでくるようになった。つまり、私のなかにあった半ば抽象的な「感情」は、学びを通して現実感を宿すことで、揺るぎない「意志」へと練り上げられていったのだ。私は、一度決めたことには揺るがず向き合う性格で、抱いた思いは、日々の行動や今後の進路選択を考える上での基軸となり続けている。
私はこれからも、妹の命を救ってくれた医学の力を信じ、自らもその一端を担う研究医になれるよう成長していく。無力だった過去の自分から脱却し、誰かの救いになり希望を与えられるように、私は学び続けようと思う。