コニカミノルタ株式会社前社長・前会長
現シニアアドバイザー
TDK/ゼンショーHD/SCSK/かんぽ生命社外取締役
山名昌衛先生
【ご講演内容】
日本を牽引するトップリーダーを講師に迎え、自分の将来・志を見つめる「トップリー ダーと学ぶワークショップ」。今回は東証プライム企業のコニカミノルタ株式会社の社長、会長を務めた山名昌衛先生をお招きし「『リーダーシップ』って何だろう?~私の場合~」をテーマに、リーダーとして生きる姿勢についてご講演いただいた。
私は、兵庫県の丹波の片田舎で生まれました。学年ひとクラスの小さな小学校に通い、野山を駆け回って育ちました。
小学4年生の夏のある日、学校の廊下を友だちと喋りながら歩いていると、ゴミが落ちているのに気づきました。けれど、勉強の得意な子との会話はおもしろく、そのまま通り過ぎました。とその時、後ろから怒鳴られたのです。「おい、そこの二人!プールサイドに立っていなさい!」
先生のカミナリでした。暑くて立っているのはつらく、しばらくして先生が来られて言いました。「なぜ怒られたかわかるか。君たちは将来どんな形であれ、人を引っ張っていく立場になる。いくら勉強ができても、ゴミを率先して拾う人間じゃないとダメなんだ」
小さなことでも率先して自分から行動する。人が見ていようが見ていまいが、正しいことをきちんとする。先生の言葉は、50年以上経った今でも忘れられません。
広い世界を見てみたくて、中学、高校と京都の学校を受験しました。けれど合格できず、結局、公立の学校に進み、塾もない環境で過ごしました。大学こそは都会に出て見聞を広めようと、総合大学で学生数も多い早稲田大学に進学し、兵庫県出身者の学生寮で生活しました。当時は学生運動も盛んで、勉強する場としては厳しい環境でしたが、いろいろな人たちのさまざまな価値観に触れ、人に興味を持つ特性が磨かれました。
大学4年生となり、就職を前に「もっと広い世界を見たい。仕事をするなら海外を舞台に、モノづくりで勝負してみたい」という想いがありました。そしてもう一つ、私には目に焼きついて離れない光景がありました。それは、1970年の大阪万博で見た青く美しい地球の写真です(資料1)。1962年に衛星軌道上から世界で初めてカラー撮影されたもので、カメラはミノルタ製でした。さらにミノルタの製品は、1969年に史上初の有人月面着陸を成し遂げたアポロ11号にも搭載されていたのです。
私は青く美しい地球に導かれるように、ミノルタに入社したのでした。
資料1
配属されたのは、念願のカメラ貿易部でした。けれど私は職場の雰囲気に圧倒されます。公用語のように英語が飛び交い、女性や外国人がいきいきと働く、まさに現代のようなオフィスだったのです。ちゃんと英会話を学んでいなかった私は、劣等感を抱きました。
当時ミノルタの海外事業は、8割が欧米諸国でした。英会話に自信がない私は、先輩たちが手をつけていない発展途上国の開拓に活路を見出します。カメラのサンプルを持って、販売パートナーを探しに、年間で50カ国以上、200日近くも飛び歩く日々です。
入社三年目、中国が外国に対して市場を開放するとニュースで聞いた私は、会社に志願して単身で中国に乗り込みました。日中の技術者交流の音頭を取るなどの奮闘が実り、上海で製品展示会を開催できることになりました。ある日盛況だった会場で、中年の中国人女性に片言の日本語で話しかけられました。
「今日はとても素晴らしい製品で、私の目を楽しませてくれてありがとう。でも、中国の暮らしぶりをご存じですか。私たちはいつになったら自分でカメラを買って撮影し、心からカメラのある生活を楽しむことができるのでしょう」
このひと言が私の胸に深く突き刺さりました。会社のために一台でも多く販売する。それが自分の仕事だと、その時まで思っていました。しかしそれは表層的な考えです。カメラを買った人が、それを使って豊かな気持ちになる。ミノルタの製品を通して世界の人々の幸せや生活の質が向上する。そういう製品を提供して初めて、事業といえるのだと気づきました。仕事に対する考え方を、大きく変えてくれたのです。
その後しばらくして、香港からイギリスの販売会社へ赴任しました。気がつけば、さまざまな国で、現地の人と必死に理解し合おうとしているうちに、私の英会話への劣等感は消えていました。
その頃のイギリスは不況で、販売会社も業績が厳しかった。私はイギリス人と一丸となって仕事ができる目標を探していました。そのとき、本社から世界初の自動照準の一眼レフカメラを発売すると連絡を受けます。誰でも簡単にピントが合わせられ、本格的な写真が撮れるこのカメラは、当時画期的な製品でした。私は技術が画期的なら、販売も画期的にしたいと、世界初だった世界同時発売に挑戦することを決めました。そしてそれをやり遂げ、大ヒット商品となったのです。
その後1989年に東西冷戦が終結、市場開放された東ヨーロッパに進出し、トップシェアを取るなど、気づけば会社は世界150カ国超で販売とサービスを行っていました(資料2)。
資料2
1993年に会社の経営企画に配属となった私は、主力製品の複合機(コピー、プリンター、スキャナーなど多機能な事務機器)を、早急にネットワーク対応させねばと考えていました。時代はアナログからデジタルへと、大きく変わり始めていたのです。
そのためのソフトウェアを自社開発するには、コストと時間が多大にかかります。しかし、それがなければ、世界のスピードについていけません。私はその技術を持っている、アメリカの上場会社を公開買付することを社長に提案しました。すると「じゃあ、行ってこい」と背中を押してくれました。行きの飛行機で手引書を二冊読んで、私は交渉に乗り込みました。その相手はIBMのアジアトップだった超大物経営者でした。
「一緒にやれば経営資源は豊富になります。あなたの会社もハードをつくる会社と組むことが、これからの厳しい時代にきっと必要になります」
そう言葉を尽くし、承諾を得ることができました。ところが翌年、IT不況がアメリカを襲い、買収した会社も業績が苦しくなってしまいます。ただ、私が工場の現場をつぶさに見て回ると、働いている人には底力があるんです。会社が変わらなければ立ち行かない。ならば経営陣が変わる必要がある。私はそう決断し、ある朝、社長の部屋に行き、言いました。
「会社のために辞めてくれませんか」
言われた本人はびっくりして声も出ず、ようやく口を開きました。
「日本からの指示か」
「私の判断です。現場と経営に大きな乖離があります。経営を刷新しないと、この厳しい状況は乗り越えられません」
またしばらく沈黙した後、彼は言いました。「一つだけ条件がある。君が社長をやれ。そうしたら私は退く」
そう言って、本当にその日、荷物を入れた段ボール箱一つ抱え、彼は去って行きました。私は彼を強固な意志を持って即断即決するリーダーとして尊敬していたので、とても心苦しく感じました。
しかし、彼が去っても苦しい状況が打開されるわけではありません。厳しい構造改革の断行と、それをする意味、そして将来の展望を私は自分の言葉で、ことあるごとに説明しました。そんな中、戦友である日本からの応援チームが、自分たちは人件費圧縮のため、日本に帰った方がいいと提案してきました。するとアメリカ人社員が、彼らを引き留めて言いました。「我々の何倍も働いている日本人を帰国させる前に、まず我々アメリカ人が生産性を上げねばならない。合理化はアメリカ人が先だ」それは本当に心が一つになる瞬間でした。
そして2002年、私たちは苦難を乗り越え、世界最小のカラープリンター機を生み出しました。これがブームを巻き起こし、世界トップシェアとなったのです。
「生徒が高度な教育を受けたかどうかは、試験で何点取れるかではなく、まったく新しい状況で何ができるかによって確かめられる」
これは国際バカロレア初代事務局長の言葉です。私はリーダーシップもまた「まったく新しい状況で何ができるか」が問われると思っています。遠い辺境の地や、目まぐるしく変わる時代。そうした新しい状況において、仲間とともに新しい価値を生み出す。それこそがリーダーだと考えます
思えば、カメラ事業が私をビジネスパーソンに育ててくれました。その事業から撤退することを、コニカとの経営統合から三年後の2006年に、私は常務として提案しました。スマートフォンが世界を席巻する予兆があり、苦渋の選択をしたのです。
新型コロナウイルスでオフィスから人がいなくなったときも、事務機器の事業が苦境に立たされましたが、元に戻るのを我慢して待つのではなく、新しい事業の立ち上げのチャンスと捉え、リモートワークに対応しました。苦しいときこそ、未来への種を蒔く。それがリーダーの務めです。
種を蒔く際にけっしてぶれない軸は、事業で社会課題を解決すること。そして、働く社員が生きがいを追求できること。この両立ができてこそ、社会から必要とされる企業で有り得るのです。
私がリーダーとして大切にしているのは、「志」は言うまでもなく「知行合一」、すなわち、正しいことを知り、それを実際に行動すること。それから、責任は自分が取ると腹に据える「胆力」。そして「謙虚さ」です。「謙虚さ」を忘れなければ、常に学びへの意欲は途絶えず、成長することができるのです。
大学受験は人生の中間目標です。それぞれのゴールを突破して、その後に、夢に向かって挑戦するときがやってきます。夢なんてないと言う人もいるかもしれません。けれど、今はまだわからないだけで、自分の使命ともいうべきものが、きっとDNAに刷り込まれていると私は思います。「自分は何者か、何を成し遂げたいのか」。そう考え続けることで、必ずそれは発露します。せっかく生まれた一度きりの人生です。思う存分生きてください。
今からちょうど55年前、田舎の高校生だった私は、大阪万博で一枚の青い地球の写真に出会いました。そのおかげで今、私はここに立っています。つまり最初からきれいなストーリーがあったわけではありません。けれど振り返れば、まさに私の人生となりました。どうか考え続けてください。挑戦し続けてください。そうすることで、あなたの人生は拓かれていくのです。
「良い社会とは?」自分がどう貢献するか山名先生のお話を基に、与えられたテーマに沿って、メンバーと共に考え、話し合い、発表しよう!
優勝チームの内容
「良い社会」とは、自分に自信が持てる社会だと考えます。それは一人ひとりの個性が輝き、自分の信念をそれぞれが貫ける社会です。素直に人をリスペクトでき、人に希望を与えられます。そんな人々が協力し合うことで、一人ではけっしてたどり着けない、新しい境地にたどり着くこともできます。私たちは磨けば磨くほど輝くダイヤの原石。自分の個性に自信を持って、これからも生きていきましょう。
先生の講評
会社でもチームワークと言いますが、個の輝きがあってこそです。自信を持つことで人に共感を与えられる。世界を良くするため、日本も自信を持って発信する時代です。まず個人が個性を磨き、世界を良くするために主体的に行動する。私がやるからみんなも一緒にやろう。そんな気概を感じさせてくれました。