2015年5月 7日 14:29

頭の使い方の習得

みなさんこんにちは。今年度は初めての投稿になるので「はじめまして」の方が正確ですかね?
法学部3年の村尾昌大です。キャンパスがかわり、まだまだ本郷ライフには馴染めてませんが、東大法学部の異名「砂漠」なんてなんのその、楽しく刺激的な毎日を送っています。
 
ところで、僕のいう「勉強」とは何のことでしょうか?という問いを立ててみます(^^;)
よく言われることですが、大学での勉強、特に文系科目になりますとまず「答え」はありません。
大学受験における文系科目といえば英語や国語に地理歴史。自分も受験生時代に苦労しましたが、一問一答や記号選択などは言うに及ばず、論述式の問題だとしても解答欄の制限もあってある程度支持を集める「模範解答」が存在します。
一方、この国の在り方や国際社会の行く末、社会問題の解決、人々の消費行動、"世界"そのもの等々に関し、巨人の肩によじ登り、説と説とを戦わせる社会科学・人文科学において、「模範解答」というものは詰将棋の玉のようなものです。それは更新され得るという意味で常に妥協的な産物であり、あの手この手で追い詰められる獲物でしかありません。
そうして「模範解答」をよりよいものへと磨き上げ、学問は社会への貢献を果たすのです。
この点では理系の学問も同じですね。仮説という「模範解答」に厳しいまなざしを向け、その正しさ、あるいはその正しくなさを証明します。
ただ文系の学問の厄介な点はものによったら解釈がまぎれこむこと。もともと頭がずば抜けていい人の主張ですから、2つの解釈が生じたとしてもどちらも捨てがたい良さがあり、なかなかに息が長い。
総じてただ一つの結論には帰着せず、素人目にはもどかしい事態が生じてしまいます。

たしかに刑法や民法といった科目の試験では、ある事例について罪状や権利関係の如何といった結論を論証によって導き出すため、求められる解答の方向性はあるとしたものですが、やはり有力な学説の対立は存在し、どちらの説に立脚したとしても論理性が担保されていたら正当に評価されるので、一つには定まりません(たとえば違法性は結果無価値なのか行為無価値なのかという学説上の対立があります)。

では、受験生であるみなさんは目下相手にするべき「答えのある」科目の勉強を由無し事として放棄しても良いのでしょうか?
少なくとも僕は、良くないと考えます。
将来、対峙することになる学問も、多くの場合かりそめに終わるとはいえ、「答え」を見つけ出そうという努力により発展するわけであり、その過程、頭の使い方は受験勉強でのそれと酷似しています。
レポート・論文に参考文献が提示されていなければ歯牙にもかけられないように(もっとも、参考文献からの引用が多すぎてもそれはそれで問題ですが)、知識は応用にいたるまでの避けがたい基本であって、基本に忠実でない意見は余程のことがない限りわがままな意見にしか捉えられませんが、知識の習得は受験勉強でも必須の作業です。

数学や古典など、「この勉強が何の役に立つかわからない」とぼやく生徒さんを多くみてきましたが、頭の使い方がマスターするべきものである以上、我慢強く接してもらえたらなと思います。
その際、ぜひ東大生スタッフに質問してみて下さい。思考のプロセス、割り切り方など面白い頭の動かし方をしていると思います。
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