こんにちは。
東大特進コースのスタッフ4年目、来年度からは東京大学の大学院である総合文化研究科の修士課程1年生になる田村正資(たむら ただし)です。学年がかなり上ということもあって、あまり東大特進コースに顔を出すこともないので知らない人も多いかも知れません(笑)。
ブログを書くのは恐らく二年ぶりくらいなんじゃないかなぁと思います。
本来ならば、この四年間で何をやってどんな経験をしたとか、将来への抱負とかを書くタイミングなのかもしれませんが、、、あまりこれと言って思い浮かばないので、徒然と、心に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書きつくろうと思っています。
『風立ちぬ』というアニメーション映画があります。ジブリの宮崎駿監督の(今のところ)引退作品になるわけですが、この作品には堀越二郎と菜穂子という二人の人物が登場します。この堀越二郎は東大で学び、飛行機の設計に秀でた技術者で、まだ学生の頃に震災がきっかけで知り合った菜穂子と再会し、結婚することになります。
この二人の人物はかなり対照的な描かれ方をしていて、おおざっぱに言ってしまえば、二郎は自分が美しいと思うもののことだけ考え、それだけを見つめ続ける天才で、菜穂子は自分が好きな人間のことだけ、その人の幸せだけを(自分を犠牲にしながら)考えられるような人間です。
二郎には、「他人」を生々しく感じとることが出来ません。かといって、菜穂子には、「他人」を目の前にして誇示するような「自分」がないように思われます(例えば、映画のなかでは菜穂子が描いている絵はほとんど映りません。そして、映ってもよく分からない凡庸な絵であるように見えます。ここから、菜穂子には他人を前にして表現するべき自己というものが希薄であると言うのは行きすぎた解釈かもしれませんが。最近のジブリではたとえば『思い出のマーニー』において、絵が大切なモチーフになっています。これと対照するならば、絵を描いているシーンが出ているにもかかわらずその中身にほとんど関心が払われない『風立ちぬ』に注目してみてもいいでしょう)。
僕がこの四年間で何となく感じ取ったことの一つに、勉強でも趣味でも人間関係でも、上手くやっていける人はこの「自分」と「他人」の視点をバランス良く行ったり来たり出来る人なんじゃないか、という直感があります。いずれかに偏りすぎてしまうと、二郎や菜穂子のようになってしまいます。つまり、僕が言いたいのは、二郎と菜穂子のどちらにもなるな、ということです(笑)。
もちろん、二郎のような天才性、菜穂子のような献身、それを体現している人もほんの一握りいます。ただ、それに感化されて真似をしても、大抵の人は失敗してしまうことになるでしょう。実際、『風立ちぬ』が一見美しい物語に仕上がっているのは、この両者があまりにも異常な人間だからだと僕は思います。
受験勉強一つとっても、自分のやりたいことと、他人(大学)が求めているものの間を絶えず往復して、自分のやる「べき」ことを考え、発見していく能力がどんな局面でも大事になってきます。美しいものばかりに気をとられていると、ふと気づいたときには他人から一顧だにされない人間になっているかもしれません。それでも自分は大丈夫だと思っている人も多いかもしれませんが、実際それでやっていける人はそうは多くありません。
ちなみに、『風立ちぬ』には、二郎の妹が登場します。彼女は、二郎が自分のことしか見えなくなっているときに「私の方も見て」というメッセージを何度も発することになります。そんな彼女は後に医者になります。他人のなかにある醜いものと向き合いながら、誇りを持って医者という仕事に従事する彼女が、二郎と菜穂子という両極のあいだに描かれています。
なんだか、とりとめのないままアニメの話をして終わってしまいました。機会があればまた。