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出版業界編

朝日新聞出版が発行する『週刊朝日』。毎号12万部を発行し、毎週火曜日の朝には全国の書店や駅の売店に並ぶ週刊誌だ。政治経済から芸能人の話題までバラエティに富む記事が、ネットで大きな反響を呼ぶことも多い。ネットで無料で記事を読める時代に人々が「お金を払っても読みたい」と思う記事を作り続けるためには、どのような努力が必要なのだろうか。週刊誌作りのおもしろさ、やりがいについて、現場をリードする二人にお話を伺った。

ニュースの背景に隠れた「真実」と「人間ドラマ」ネット時代だからこそ「信頼できる情報」を提供

株式会社朝日新聞出版
週刊朝日 専属記者

吉﨑 洋夫  (よしざき ひろお)

1984年 東京都生まれ
2003年 東京都 私立 京北高校卒業
     (現:東洋大学京北高校)
2009年 早稲田大学 社会科学部卒業
2012年 早稲田大学大学院 社会科学研究科
     地球社会論専攻修士課程修了
2012年 NPO法人 言論NPO入社、広報、代表室、
     表彰事業などを担当
2016年 朝日新聞出版『週刊朝日』編集部記者
     (業務委託)として契約、現在に至る

私大の「実志願者数」を初めて記事化ヤフーニュースにも転載され話題に

吉﨑洋夫が週刊朝日の専属記者となって約3年が経った。現在は教育関連の記事を担当するチームの主力として、大学や予備校の関係者に日々取材をしながら記事を執筆する。最近では「私立大学の新序列」という担当記事がヤフーニュースなどにも転載され、世間の大きな話題となった。従来の偏差値に基づき定着していた私立大学の「鉄の序列」が、さまざまな大学の改革が功を奏したことで、受験生の人気にも変化を与えているという内容だ。

「その記事は、大学受験を控えた子どもがいる知人から『読んだよ』と連絡がありました。教育問題に関心を抱く層は主に、受験生を子どもに持つ40代から60代の方々です。週刊朝日の主要な読者層とも重なるため、特に受験シーズンには力を入れて特集を組みます」

私立大学の「実志願者数」を各校にアンケート調査して、ランキングした記事も大学関係者に衝撃を与えた。併願制度を採る多くの私大では、一人の受験生が複数の学部を受けた場合、それを別個に数えた「延べ志願者数」しか公表していなかった。しかしその数字だけを見ていては、大学の「本当の人気」はわからない。

「併願をカウントしない実志願者数は、大学にとって経営の根幹にも関わる『企業秘密』です。公表することを嫌がる大学は複数ありましたが、粘り強い交渉を続け、主要な大学の実志願者数を初めてその記事で明らかにしました。いくつかの大学では理事会の重要議題にかけられ、『あの大学が公表するならうちも出さなければ』と機関決定されたと聞いています」

バスケ一筋だった高校時代怪我で引退も恩師の一言で勉強に奮起

高校時代の吉﨑は、将来自分が週刊誌の記者になるとは想像もしていなかった。幼いときからスポーツが好きで、中学ではバスケ部に所属。スポーツ推薦により、都内でも屈指の強豪バスケ部を擁する高校に入学した。高1のときの夢は「プロのバスケット選手になり、世界で活躍すること」。「ところが高校2年のときに怪我をしてしまい、バスケ部を辞めることになったんです」

それまで全力で部活にだけ取り組んでいたため、成績は常に最底辺。目標を見失った吉﨑は、スポーツ推薦で入ったこともあって、高校を退学することすら考えた。

「そんな僕に対し、担任の先生が『俺はお前を辞めさせたくない。期待しているぞ』と声をかけてくれたんです」

恩師の言葉に奮起した吉﨑は、高2の夏から猛勉強を始める。成績は急上昇し、「世の中のことを幅広く勉強したい」と考えたことから早稲田大学社会科学部に狙いを定め、浪人して合格した。報道の仕事に関心を抱くようになったのは、早稲田で過ごした大学時代だ。

「ジャーナリズムに関心を抱き、大学院に進んでからはミルトンやスチュワート・ミル、ウォルター・リップマンなど、西洋のジャーナリズムの礎を築いた思想家の研究をしていました」

卒業後、「議論の力で強い民主主義をつくり出す」を理念に掲げ、日中韓関係などをテーマにさまざまなシンポジウムなどを企画する特定非営利活動法人「言論N P O」に就職する。吉﨑はそこで広報や表彰事業などの業務を4年間担当したが、やがて「より現場に近いジャーナリズムに関わりたい」という思いが強くなった。

「ちょうどその頃、朝日新聞出版が業務委託記者の公募を行ったんです。大学4年のときにジャーナリズムの現場を体験してみたいという思いから、朝日新聞の編集局で1年間アルバイトをしたことがあって、その募集に目を留めました」

契約後すぐに教育関連分野を担当することになり、大学の広報担当者や高校の進路指導教師、文部科学省の官僚、予備校や進学塾の幹部などに取材をする日々が始まった。

「記者になって最初の頃に書いた原稿は、デスクに提出したら原型を留めないぐらい真っ赤に添削されて戻ってきました。その赤字を一つひとつ見て、商品としての原稿をどうやって書くのか学んでいきました」

記事を生むのは「個人の問題意識」ペンの力で世の中を動かしていく

「東大合格者実名アンケート」という記事を担当したときは、予備校や高校に協力を呼びかけ、東大合格者1300人からアンケートを集めた。質問項目は「合格の秘訣」をはじめ、受験勉強中に親や教師から言われて嫌だった言葉、将来実現したいことなど、多岐にわたった。

「アンケートの手書きの記述は、編集部のスタッフで手入力しました。その作業は大変でしたが、『優秀な東大生』と一括りにするのではなく、彼ら・彼女らのリアルな人間像に迫りたいという思いで記事を作りました」

教育関連の話題に関心を抱く人は多く、担当した記事が朝日新聞出版が運営するウェブサイト「AERA dot.」に転載されると、何百というコメントがつくことも珍しくない。自分が企画し、ゼロから作り上げた記事が世の中にインパクトを与え、受験生や親たちの役に立つことが今の仕事のやりがいとなっている。

「昨今、いくつかの大学の医学部が、男女で合格点数に差をつけていることが大きな問題となりましたが、そのニュースを見たときには、『報道された大学以外ではどうなんだろう』と考えました。調べてみたところ、他の医大・医学部でも男女比に数字上の明確な差があるところがいくつもある。入試差別を行っている証拠はありませんが、説明をする必要があるのではないか、と記事では締めくくりました」

具体的な数字やデータをもとに、教育問題に深く切り込み、真実に迫る。週刊朝日の報道によって世の中の現実が動き、良い方向に変わっていくことを目の当たりにすることも珍しくない。吉﨑は今、まさに学生時代に志したジャーナリズムの仕事に携わっているという実感がある。

「これを読む高校生の中に、記者の仕事に就きたい方がいるなら、『自分の心の中にある問題意識を大切にしてください』と伝えたいですね。すべての記事は、その個人の社会に対する問題意識から生まれてくるはずです」と吉﨑は語った。

大切なのは人間に対する探究心市井の人々のために週刊誌を作る

株式会社朝日新聞出版
『週刊朝日』副編集長 医療健康チーム

長谷川 拓美  (はせがわ ひろみ)

1974年 茨城県生まれ
1993年 茨城県立 水戸第二高校卒業
1998年 明治大学 文学部 文学科卒業 
1998年 日本テレビ「ルックルックこんにちは」のAD
1998年 講談社契約社員『Hot-Dog PRESS 』の編集
     結婚・出産
2002年 主婦の友社契約社員後入社
     第一編集部 妊娠・育児・ママ雑誌
     『Pre-mo』『Baby-mo』『Como』の編集
2009年 朝日新聞出版入社
     週刊誌『AERA』の記者、『週刊朝日』の記者・
     編集、分冊百科の編集を経て現在に至る

ライバル誌と真剣勝負しながら時々刻々のニュースの真相に迫る

1922年に創刊された老舗週刊誌、『週刊朝日』の副編集長を務める長谷川拓美の日々は多忙だ。週刊朝日の制作は、毎週火曜の午前にスタートする。

「10時30分の班会で記者が企画を編集長の下にいる数人のデスクに提出し、それが30分後のデスク会議にかけられます。各デスクは企画を通すべく、特ダネ、最近話題のネタ、社会のために取り上げるべきネタなどの観点から、編集長の前でプレゼンします」

編集長はデスクから読み上げられる企画を瞬時に「これはいる」「いらない」「取材を続けて3号先で掲載」などと判断。即座に担当が割り振られ、取材と誌面作りが始まる。記者から「ネタ元の発言が取れない」「取材した内容に齟齬がある」などの報告があれば、企画の方向性を見直す。また世間を揺るがす大ニュースや、有名人の結婚や死去などがあった際には、デスクと編集長の間で紛糾しながら誌面の構成を一から組み変えることもある。記者たちは土曜の早朝までに原稿を書き上げ、そこから長谷川たちデスクが記事を詳細に確認し、その日の21時頃に校了する。日曜日と月曜日は通常は休みだが、いろいろな場所に出かけて企画につながる交友を広げ、新聞や書籍などに目を通してネタを拾い集める。

「日本に週刊誌はいくつもあり、発売日が同じライバル誌とは、世の中の出来事を取り上げるスタートラインが同じです。一番おもしろい情報をくれるネタ元を探してコメントを取るために、常に他誌と真剣勝負を繰り広げています。新聞記者は事件に関して事実のみを書くことが求められますが、週刊誌の記者はそこに事件の背景や、人間ドラマなどの肉づけをする必要があります」

そのため週刊誌の記者には何より人の気持ちを汲み取る「想像力」が求められると長谷川は言う。しっかりとした取材で事実の裏をとり、想像力によって人間が織りなす現実のドラマを提示する。それが週刊誌のメディアとしての役割であり、醍醐味だと語る。

「インターネットで誰もが情報を発信できるようになった今、私たちの役目はお金を払う価値のある『信頼できる情報』を提供すること。特に私が担当する医療健康記事は、間違った情報が広まれば人々の生命にも関わります。朝日新聞という歴史あるメディアが母体となっている週刊誌ならではの、読んでおもしろく、そして正しくて役立つ記事を掲載するのが使命です」

原点は小学生時代の「自分雑誌」 テレビ局ADから編集者へ

長谷川がマスコミの仕事を志すようになったきっかけは、幼少期に遡る。

「近所に本屋がない郊外で、月に1度、水戸の本屋に両親と行くことが楽しみだったんです」

2つ上の姉が読んでいた集英社の『non-no』を小学3年生のころから愛読し、将来、ファッション誌の編集者になることを夢見た。そのころの趣味は、『non-no』の誌面を切り取ってノートに貼り、自分オリジナルの『Hiromi non-no 』を作ること。今もその手作りのファッション誌は実家に残っている。美術書好きの愛読家であった両親のもとで育ち、自宅の本棚には歴史小説や時代小説だけでなく、鳥獣戯画や日本の国宝などの図鑑も揃っていた。

地元の公立中高を卒業した長谷川は、明治大学文学部に進学。大学卒業後、長谷川は日本テレビの朝の人気報道情報番組「ルックルックこんにちは」のADとして働き始めた。「1998年7月に発生して世の中を騒がせた、和歌山毒物カレー事件の補佐を担当し、ディレクターが取材しやすいように周囲の情報を集めました。事件が起きた場所と犯人宅、被害者宅の近さに、驚きました」

その後も事件記者として、さまざまな現場を駆け巡る日々が続いた。だが、やはり幼い頃からの「出版の仕事に就きたい」という夢も忘れられない。一年で長谷川は思い切ってテレビの世界を離れ、出版大手講談社の契約編集者となる。そこでは当時青少年に大人気だった雑誌『Hot-Dog PRESS』の編集部に配属された。街なかで見つけた可愛い女の子に声をかけて写真を撮影するグラビア頁や、芸能情報などを担当した。

「私が街でスカウトした女の子の中には、今もテレビのバラエティ、報道番組などで活躍を続けるタレントさんもいらっしゃいます。憧れだった雑誌の編集業務に就けて、本当に嬉しかった」。その後、長谷川は結婚して出産したことから、二年半ほど仕事を休んだ。だが、忙しくも充実していた雑誌作りの日々が忘れられなかった。

「毎日、新聞を隅から隅まで読んでいました。企画も何本か考えたりしました」

再び編集者として働くことを決め、主婦の友社に入社する。自らの経験を活かして出産・育児関連の雑誌の編集者となって、7年間を過ごした。朝日新聞出版に入社したのは2009年のこと。編集者として10年以上の経験を積んだ頃だ。

「以前から当社の雑誌『AERA』を愛読しており、ぜひ働いてみたかったんです。AERA編集部では、X JAPANのYOSHIKIさんに関する記事を書いたところ、それを読んだご本人が『おもしろい』と感じてくれて、ホテルのスイートルームでインタビューを取れたことが思い出深いです」

AERAの後、分冊百科の編集を担当。部署の部屋には、実家の本棚に両親が揃えていた『週刊朝日百科 世界の美術史』もあり、「ここであの本を編集していたんだな」と感慨を覚えた。週刊朝日の編集者になってからは、日々の生活の中で企画を探し求める毎日を過ごす。

「週刊誌のネタを見つけるのは難しくありません。電車で座っているとき、眠ったり手元のスマホを覗き込んで時間を潰すのではなく、周りの人を見回してみれば、いくらでも企画のアイデアが浮かんできます」

例えば、両隣の人がどんなサイトを見て、どんな本を読んでいるか。優先席に座る高齢者の夫婦がどんな会話をし、子ども連れの母親がどんな様子で話しかけているか。街に出て景色を眺め、人に会って話を聞き、通り過ぎる人を観察する探究心を持つことが、何より大切だと長谷川は語る。

世の中に暮らす「市井の人々」が、読んで楽しく、役立ててもらえる記事を一本でも多く提供すること。幼い頃から夢見ていた「編集者」という仕事のやりがいを日々感じながら、今日も長谷川はデスクで企画を考え、原稿をチェックする。

Q&A

取材先の人々との関係性はどのように作っているのでしょうか?

【長谷川氏】 医療関係者の集まる会食やパーティに出席して、名刺交換をして人脈を広げます。医師の友人が知り合いを紹介してくれるなど、人の輪は人とのつながりによって生まれます。いかにして短時間で信用されるかが大切なので、謙虚な態度、嘘をつかない、きちんとした身なりの三つは心がけています。社会人としての基本ですが、それは編集者や記者でも変わりません。 【吉﨑氏】  大学関係者や予備校の先生とは、交流会などで出会ったときなどに、最近の教育に関するニュースについての意見を聞くようにしています。普段から誌面化するしないにかかわらず、コミュニケーションを絶えずとっておくことが、後々役立つと感じています。

原稿を書くうえで気をつけていることはありますか?

【長谷川氏】 「筆が滑らないこと」です。週刊誌は買ってもらうために人目を惹くタイトルをつけることも大切ですが、羊頭狗肉の記事になってはいけません。朝日新聞という歴史ある新聞社が発行してきた週刊誌なので、すべての文章の裏づけをきちっと取って、間違いがない記事にすることに最も気をつけています。また医療関係の記事は漢字が多くて読み方も難しくなりがちなので、できるだけわかりやすい言葉で原稿を書くように心がけています。 【吉﨑氏】 自分がおもしろいと思ったことを書く。伝えたいと思ったことを書く。そして、読みやすいように構成をわかりやすくすること。この三つは、常に原稿を書くうえで念頭に置いています。

週刊誌の制作以外にも、担当している仕事はありますか?

【長谷川氏】 連載をまとめて書籍にしたり、特定のテーマの記事を集めたムックの編集をしたりします。またそれらの書籍やムックを販売するためのセールスプロモーションの会議にも出席し、一人でも多くの人に買ってもらうための戦略を考えたりもします。デスクになると、自分の班の記者や編集者の勤務管理や、体調の管理をすることも重要な仕事です。

ライバル誌の編集者や記者とも交流はあるのでしょうか?

【長谷川氏】 取材現場で他の週刊誌記者に会うことはしょっちゅうあります。名刺交換をして「あの記事を書いた◯◯さんですね、署名記事、拝読しています」などとお互いに挨拶します。同じ業界の人だけでなく、名刺一つあれば、自分が取材したい人、政治家・芸能人・スポーツ選手・文化人ほか、自分が憧れている人に会えることが、この仕事の大きな楽しみの一つです。

もっと詳しく

出版業界とは

従来は紙の本、雑誌を作って販売するのが出版社の役割であったが、社会のデジタル化および「出版不況」と呼ばれる紙媒体の売り上げ低下により、近年は「コンテンツ産業」全般に業務を拡大する動きが各社で始まっている。マンガの売り上げはすでに電子書籍での売り上げが紙の単行本のそれを上回り、一般の書籍も電子媒体の売上額が年々向上を続ける。社会のグローバル化にともない日本語のコンテンツが翻訳され海外で販売されることも増えている。デジタル化と国際化が今後の出版産業の成長のカギを握る。

出版業界で働くには

4年制大学、または大学院の卒業後に就職するのが一般的。大手、中堅の出版社の定期採用枠は少なく、高倍率の狭き門となっている。日本に出版社は約4,000社あると言われるが、そのほとんどは社員数名~100名ほどの中小企業。大手中小を問わず中途採用や、契約・アルバイトの採用は数多くあり、業界内での転職も珍しくないため、編集プロダクションなどで経験を積んでキャリアのステップアップをしていく人も多くいる。世の中全般に対する幅広い好奇心と知識を持ち、人とのコミュニケーションを好む人材が求められている。