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総合商社編

「世界経済の縁の下の力持ちになろう」と伊藤忠商事に入社した古山馨さん。3年目にコロンビアに赴任してから、オーストラリア、ロシア、シンガポールなど世界を舞台に仕事をしてきた。クライアントだけでなく、社内の多様なメンバーとのコミュニケーションを重ねるなかで常に意識し、大切にしていた「能力」とは?

世界に貢献しようと伊藤忠商事へ
語学にも勝る大切な能力とは?

伊藤忠商事 株式会社
人事・総務部、採用・人材マネジメント室

古山 馨  (ふるやま かおる)

1988年 東京都品川区で生まれる。
2006年 麻布中学・高校時代を100%以上楽しんで早稲田大学国際教養学部へ。
2011年 伊藤忠商事に入社し、石炭部に配属。3カ月目に「あってはならない」ミスを犯す。
2013年 コロンビアの首都ボゴタに赴任。2年間、生涯忘れられない日々を過ごす。
2015年 帰国。ロシアに頻繁に出張するように。
2017年 シンガポールで個性豊かなチームを率いる。
2021年 人事・総務部、採用・人材マネジメント室に異動。

 

「取引先、世間、社会、世界から求められるものをひたすら追い求めていくビジネスです」。商社の仕事を一言で表してください、という質問に対して、伊藤忠商事で現在、人事・総務部、採用・人材マネジメント室に所属する古山馨は、そう答えた。

実際、商社の仕事は多岐にわたる。さまざまな商品を作るための原料、原材料などを世界中から仕入れ世界各国へ販売する取引のほか、国内外の企業への出資、提携した企業と共同での事業経営も手掛ける。

伊藤忠商事は初代伊藤忠兵衛が大切にしてきた商いの哲学「三方よし」=「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」と共に、1858年の創業以来、さまざまな事業を手掛けてきた。この言葉は、売り手、買い手の利益だけでは無く、社会へ貢献ができてこそ、長く商いを続けることができるという考えであり、近年の世界的潮流である「SDGs(持続可能な開発目標)」に通ずるものである。今年4月には、東京・青山に「ITOCHU SDGs STUDIO」をオープンし、情報発信拠点として、SDGsに取り組む団体等への無償貸与も始めた。

同社は現在、世界62カ国に約100の拠点を有しており、今春に現在の部署に配属されるまで、古山もコロンビア、オーストラリア、ロシア、シンガポールなど世界を舞台に仕事をしてきた。その歩みのなかで不可欠だったのは、語学力……ではなく、「相手が何を求めているかを敏感に感じ取る力」だという。

就職先を決めた一本の電話 入社3カ月で顔面蒼白のミス

1988年、東京品川区で生まれた古山は、小学校1年生の10月から約1年半、父親の仕事の都合でアメリカに住んでいた。小学校3年生の夏に帰国すると、「アメリカンな男児」はクラスで浮いてしまい、いじめに遭ってしまった。この時の経験が、マジョリティ、マイノリティを問わず他者の気持ちを慮ることの大切さを意識するきっかけになったのかもしれない。中学は受験をして私立麻布中学校に進学し、高校卒業までの6年間を過ごした。麻布は自由な校風で知られ、古山ものびのびと過ごして「100%以上楽しめた」と振り返る。

中学3年生から高校に上がる2003年の春休み、単身アメリカに渡り、現地の学校で1カ月を過ごした。これが、将来の仕事を考えるきっかけになった。

「僕がアメリカに滞在していた時に、イラク戦争が始まったんです。同級生の家族や知り合いがなにかしらの形で戦争に関わっていたし、テレビも毎日報道していて、戦争が日常の一部になっていることにショックを受けました。それから世界平和に貢献する仕事がしたいと思うようになり、本気で国連を志した時期もありました」

早稲田大学に入学してからも国連勤務を目指していたが、新卒での採用は非常に狭き門だった。そんな中、就職活動の時期に行った自己分析を通じて、「国連とは違う形で世界平和に貢献しよう、世界経済の縁の下の力持ちになろう」という思いが強くなった。そのテーマに合致したのが、商社だった。最初は「商社であればどこでもいい」と考えていて、業界大手数社の採用面接を受けた。その過程で伊藤忠商事に絞った理由は、一本の電話だった。

「一次面接を通過した時、ほかの会社はメールでの連絡だったのに、伊藤忠だけが電話をくれたんです。それで、就活生としてではなく、古山馨という人間を見てくれている、本気で一緒に働く仲間を探しているんだなと思えたんですよね」

2011年4月、伊藤忠商事に入社した古山は、石炭部に配属された。商品についてほとんど知識がなく、必要な言葉や知識をイチから学んでいった。最初は海外で買いつけ、日本の電力会社や製鉄会社などに販売する先輩の仕事をサポートしていた。

少しずつ社会人生活に慣れ、同時に気が緩んだのだろう。入社一年目の7月、とんでもないミスを犯してしまう。同業のA社とB社に請求書を送る際、A社の金額を記したものをB社に、B社の金額を記したものをA社に送ってしまったのだ。互いの会社がなにをいくらでどれだけ買っているのかが、筒抜けになってしまう「あってはならない」ミスだった。

しかし、上司や先輩社員はしっかりと指導した後に、「ミスは起きるから、起きた後にどう行動するかが大事だ」とクライアントへの謝罪の場をセッティングしてくれた。このとき、しどろもどろで頭を下げながら、学生時代とは比べものにならない社会人としての責任の大きさを実感したという。「最初の頃の仕事の思い出は本当にいろいろとあります。一つひとつを切り取ると苦しいことも多かったですが、振り返ると楽しかったですし、成長させてくれました。資源の安定供給とその安全供給を通じて世界平和に貢献できている実感があったのもうれしかったですね」

最初の赴任地は未知の国 コロンビア現地スタッフと信頼関係を築く

3年目以降は、仕事で海外に出るようになった。コロンビアは2013年から約2年間駐在し、駐在から帰国後の2年足らずの日本勤務ではオーストラリア、ロシアに出張で頻繁に訪問、シンガポールには2017年から4年間住んだ。少しずつ任される仕事の規模が大きくなっていくなかで、古山が常に意識していたのが、「相手が何を求めているかを敏感に感じ取ること」。それは、クライアントの要望をしっかりと把握することや、ビジネス上の細やかな気遣いに留まらない。

最初の赴任地だったコロンビアでは、駐在員は社長と古山のふたりだけという時期がほとんどで、あと40人ほどのスタッフはほぼコロンビア人。当時のコロンビアは人口約4800万人いたが、日本人はそのうち1000人いるかいないか。街行く人は、日本人に会ったこともなければ、スタッフですら日本がどこにあるのかも知らないという状態だった。

そこで古山は、「自分は日本という看板も背負っている」と捉えて行動した。

「日本が中国の一部だと勘違いしていたスタッフには、地図を見せて日本の場所を教えました。小さなことも適当に済ませず、ちゃんと日本のことを知ってもらいたかったんです。同時に僕もコロンビアについて理解を深めるために、スタッフとたくさん話をしました」そうしてスタッフに寄り添うことで、信頼関係を築くことができたという。コロンビアは今や、古山のなかで「第二の故郷」だ。

シンガポールでは多国籍チームを牽引 帰国後に目指すは、営業との架け橋

シンガポールは日本人が多く、インフラやサービスも行き届いていて、生活するうえでは便利そのものだったが、仕事は一筋縄ではいかなかった。古山のチームには日本、韓国、インド、マレーシア、インドネシア、ミャンマー、シンガポールという7カ国の出身者が集い、それぞれの常識に従って意見を言い、行動する。

例えば正月の休日を一つとっても、年明けの三が日は休みたいという日本人はマイノリティで、ほかの国の出身者にはそれぞれもっと大切にしている休日がある。そういった文化の違いに加えて、日本では見ないようなユニークなメンバーも多く、まとめ役として苦労が絶えなかった。

「インド人のスタッフに、自分はビジネスを作る天才だと採用した初日に宣言されました。この人、大丈夫かなと思ったら、本当に優秀すぎて、すごいスピードでビジネスを作り始めたんです。ただ、ほかのスタッフが皆やっている契約書を作ったりといった後処理は一切やらない。それで、上司から『古山、頼む』と言われて彼のサポートをしていたら、自分の担当ビジネスが回らなくなりました(苦笑)」

休日、給料、働き方など自由に意見をしてくるのは、ほかのメンバーも同じ。個性の強いチームを率いているうちに、心境が変化し始めた。厄介だなという気持ちから、あらゆる要望を聞き、真意を汲み取りながら、先回りして対応することが「楽しくなりました」。

もともと、コロンビア時代に現地を訪ねてきた他部署の上役と話をしていた時から「人事、企画、財務という経営に近いところに携わった経験のある人はおもしろい」と感じていた古山は、シンガポールでの強烈な日々を経て、人事の仕事に興味を持つようになった。そこで自ら異動の希望を出し、今年4月から人事・総務部の採用・人材マネジメント室に配属されたというわけだ。

「営業のメンバーには古山を人事に出して良かったと思われたいし、受け入れてくれた人事・総務部のメンバーにも古山が来てよかったと思われたいです。営業との架け橋になりたいですね」と語る古山。「人」と向き合う部署だからこそ、これまでに培ってきた「相手が何を求めているかを敏感に感じ取る力」がさらに生かされるに違いない。

Q&A

思い出深い国はどこですか?

コロンビア。仕事もプライベートも手探り状態で、自分からどんどん働きかけていかないとおもしろくも、良くもならないので毎日必死でした。自分の力で生きていると実感できた日々でした。

語学はどうやって勉強するのが効果的?

トライ&エラーが大切です。ミスを恥ずかしがらずに憶えた言葉をどんどん使いましょう。恥ずかしがって話さないのはもったいない。