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電機メーカー業界

「日本の企業を世界にPRする広報」に憧れた学生時代。しかし、配属されたのは地方支社の営業。暗中模索しながらも、「いつか広報に」と地道な努力を続けた。迎えた12年目、念願の広報に異動。必死に学び、三年後、ニューヨークオフィスへ転勤する。アメリカで難しいミッションを成し遂げ、今は日本でチームを育てる。

営業で得た“打たれ強さ”
憧れの「広報」でアメリカ生活も経験
「大切にしたい仕事」に

日立製作所 グローバルブランドコミュニケーション本部 コーポレート広報部

永本 多美恵  (ながもと たみえ)

1976
岡山県岡山市で生まれる。
父親の転勤で転校が多く、小・中・高校では、入学した学校で卒業式を迎えたことがない。
1996
岡山大学文学部行動科学科で心理学を専攻。
家庭教師、保育園の先生の補佐、市役所での事務などのアルバイトを経験。
2000
株式会社日立製作所入社。約10年間、中国支社(広島市)で情報通信システムの営業や宣伝活動に携わる。
2011
現在のグローバルブランドコミュニケーション本部コーポレート広報部に異動。
2014年6月から2019年1月までニューヨークに駐在後、現職。

 

「自信がありません……」2014年某日、日立製作所グローバルブランドコミュニケーション本部コーポレート広報部で働く永本多美恵さんは、うなだれていた。上司から、ニューヨークオフィスへの転勤を打診された時のことだった。

もともと海外に興味があった彼女にとって、嬉しいオファーだった。しかし、三年前に広島にある中国支社の営業・企画職から異動してきて、「ほかの広報部員と比べて広報の知識も英語も優れているわけでもないから」と思わず後ろ向きな言葉を口にした。それを聞いた上司は、こう言った。「ちゃんとやれると思って、送り出すんだぞ」

永本さんはハッとした。従業員が3万人を超える日立でも、ニューヨークで働ける人は限られている。上司の期待に応えたい。このチャンスを生かしたい。

永本さんは、2014年6月、ニューヨークオフィスに赴任。しばらく後、日本の上司から「ものすごい成果」と評価される仕事を成し遂げる。



センター試験で二度失敗 岡山大学から日立に入社

永本さんは1976年、製薬会社で営業をしていた父親と専業主婦の母のもとに生まれた。父親は転勤が多く、永本さんは小学校から高校まで、西日本を転々としていた。校則が厳しく、カリキュラムもハードだった鹿児島の高校から開放的な校風の香川県高松市の高校に移った後、大学受験を迎えた。東京への憧れもあり、東京外国語大学かお茶の水女子大学に行きたいと考えるようになった。海外への興味、女子大の教育への関心もあってのことだった。

しかし、センター試験で失敗。一年間、浪人して再挑戦したものの、二度目も点数が届かなかった。もう後がなくなって、「東京に行けないなら、地元に近いところがいい」と方向転換。小学校2年生から中学1年生まで過ごし、好印象を持っていた岡山なら高松からも瀬戸大橋を渡ってすぐだからと後期試験では岡山大学を受験。もともと文章を書くのが得意で自信のあった小論文だけで受験し、合格した。

岡山大学では、文学部行動科学科で心理学を専攻。大学2年生から留学生の生活をサポートするボランティア活動に精を出した。韓国やミャンマーから来た留学生に日本語を教えていると、次第に打ち解け、友人として関係を築くようになった。それでますます海外への思いは募った。

大学3年生になると就職活動が始まり、自分はどんな仕事に就きたいのかを考えるようになる。永本さんの頭に浮かんだキーワードは「キャリアウーマン」と「広報」だった。

「学生の頃、キャリアウーマンが活躍するドラマが流行っていたんですよ。メディアでも活躍する女性がよく取り上げられていて。企業や社長のことを自分の言葉で世に伝える仕事があると知って、日本の企業を世界にPRする広報としてグローバルな舞台でバリバリ働きたいなと思いました」

就職活動中は、大手企業を中心に何社か採用試験を受けた。そのなかで日立製作所に決めたのは、懐の深さを感じたからだ。「最初に内定をくれたのが日立だったんですけど、就職活動ぐらいしかいろいろな企業の人と会える機会はないのだから、ほかの会社もどんどん受けたらいいと言ってくれたんです。実際に他社も受けましたが、最終的には日立の面接官の方々の印象が良かったので、入社を決めました」

営業に配属され試行錯誤の日々 努力を続けて広報に異動

2000年、永本さんは日立製作所の中国支社(広島市)に配属された。就活時には広報希望と伝えていたが、任されたのはパソコンやサーバーなど情報通信システムの営業だった。中国支社で、女性の営業は永本さん一人。当時は今ほど男女平等の意識も高くなく、営業先では女性というだけで軽く見られたり、時には不快な扱いを受けたりすることもあった。それでも歯を食いしばり、なんとか契約を取ろうと駆け回った。厳しいお客様も多く、面談のアポイントを入れることすら簡単ではなかった。

同業他社との激しい競争のなかで契約を得るためには泥臭いコミュニケーションがときには必要だ。そんな地道な営業で得たものは、営業成績だけでなく、今も生きる〝打たれ強さ"だと永本さんは言う。

日立には、人手がほしい部署が社内から人材を募る制度があり、三年目に広報の募集が出た。永本さんはすぐに応募したが、書類選考で落ちた。その時の選定基準に「英語力」「財務会計の知識」とあり、それが不足していたと感じた永本さんは、毎日のハードな営業をこなしながら勉強を始めた。そして、ことあるごとに上司に「広報の仕事がしたい」と訴え続けた。

地道な努力と種蒔きが実ったのは、2011年。その数年前、永本さんは営業から企画に移っていて、その上司が「広報をやりたいという人間がいる」と東京本社の広報担当者に話していた。それがきっかけで永本さんの存在と想いが東京に伝わり、念願の異動が叶った。入社から11年が経っていた。

広報の仕事は、企業の製品や取り組みを世に広く知らしめること。具体的にはテレビ、新聞、雑誌、ウェブに取り上げてもらうために記者会見や取材の場を設定するなど、さまざまな情報発信をする。営業・企画とはまったく違う仕事をイチから学んでいった。

最初の頃に戸惑ったのは、メディアとの関係だった。質問されたことにすぐに答えられないと、記者に厳しいことを言われることもあった。しかし、営業は自分一人ではどうにもならないことも多いが、広報の業務は知識を増やし、しっかりと準備をすればほとんどのことに対応できる。「どんなつらいことでも、営業時代の経験があるから、たいていのことは乗り越えられる」と感じた永本さんは、仕事に没頭。プライベートでも英語の勉強を続けていた。そういう姿勢が評価されたのだろう。広報に就いて三年目、ニューヨークオフィスに転勤した。



アメリカで難航した広報 知恵を絞って出した成果

アメリカでは、広報とインベスターリレーションズ(IR)が主な業務だった。IRとは既存の株主や投資家とのコミュニケーションで、日立への投資を考えている投資家たちに魅力を伝える仕事である。

日本とアメリカの大きな違いは、アメリカでは日立の知名度がほとんど通用しないこと。それでも投資家たちは情報を求めているのでIRのミーティングは数多く経験したが、広報は難易度が高かった。

アメリカのメディアはアメリカにインパクトがあるニュース以外、記事にしないからだ。もちろん、日立の広報と親しい関係にある記者は皆無だった。それだけに、アメリカで日立の展示会を行うことになり、本社から「現地の記者を一人でもいいから呼んでほしい」と指示があった時には知恵を絞った。永本さんを中心に、まず、日立と関連する事業についてメディアで署名記事を書いている記者を約100人ほどリストアップ。全員に展示会の案内を送り、「日本から来るCEOのインタビューをしませんか?」と一人ひとり、口説いていった。それでも芳しい反応がないなか、たった一人だけこの呼びかけに応えた記者がいた。その記者を展示会に招待し、CEOとのインタビューをセッティング。記者がその様子をSNSで発信したことで情報が拡散し、ミッションを果たすことができた。

「すごく小さな成果でしたが、アメリカでその成果を出すことがどれだけ難しいかを知っている上司だったので、日本で大きな記事になるよりもすごい成果だと褒めてくれました」

 アメリカで5年弱過ごした後、帰国。永本さんは現在広報部長代理として、アメリカでの経験を生かし、通常の広報業務に加え、記者向けに日立のニュースを伝えるメルマガを発行、記者を集めて勉強会を開催するなど、日立の情報発信を強化するための新しい取り組みを始めている。学生時代からの憧れの仕事は、まだ道半ばだ。

「私の場合は回り道をして広報という夢を掴みました。そういう意味でも、大事にしていきたい仕事ですね」

Q&A

アメリカ時代に楽しかったことは?

旅行でアメリカの国立公園を巡るのがすごく楽しかったです。途方もなく広い大地を見ていると、自分の見てきた世界の小ささを感じて、刺激を受けましたね。

憧れの仕事に就いてどう感じる?

すごくラッキーだし幸せなことだなと思います。これも運と出会い。だからどんなに困難な状況に遭遇しても、これはきっと私にとって何か意味があることだと考えるようにしています。